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2009年5月

2009年5月25日 (月)

綺麗な写真。画家と写真家との関係は・・・

Lアルフォンス・ミュシアというボヘミアの画家がいる。パリにおいては、アールヌーボーの寵児といわれ、神話的なイメージの女性像と花の装飾が美しく(モチーフは必ずしも神話的ではないが)、私の好きな画家の一人だ。最近、その画家の画集を見ていて思わずぎょっとした事があった。若い聖母と少女の組み合わせによる「百合の聖母」という清らかな作品がある。その絵を描くための少女の参考写真が、同じページに載っていたのだ。ミュシアは写真を撮るのも好きだったと見えて、しばしばモデルを作品のために撮影している。その時の写真も彼の撮ったものだった。が、その少女があまりに醜くかったのである
衝撃的といってよい。少女は絵画作品と全く同じ衣装で、同じポーズをとっていたが、どこか人間離れしたものに見えた。つまり、いじけた離れザルのようで、人間の尊厳も、野生の美も、よいものが微塵も無い。ひね曲がり暗い眼をした惨めな獣がそこにいた。それで驚いてしまった訳だ。
「おおっ
! 何だこりゃ」と。

いや、気を落ち着けてよく見直してみれば、それほどひどくはないのかも知れなかった。あくまでも、ミュシアの崇高な(少なくとも清楚な)絵画作品と比べてという事で、その対比によって一瞬、そのように見えたに違いない。また、一般の人達が見れば、何のことはない、普通の写真に過ぎないのかも知れない。ただちょっと、頭でっかちで肩幅が狭く、猫背で、やる気なさそうなポーズで姿勢が悪く、「早く解放して欲しいんだけど」と言わんばかりの恨みがましい上目遣いの不満な表情があるだけで・・・むしろ子供らしい表情の顕れた微笑ましい写真に過ぎないのかも知れない。
ただ、前後の他のページにも、下敷き用のモデルの写真が載っていたのだが、その時は、やはり全てがおぞましく醜く見えたのである。

それにしてもその写真は、彼の描く作品とは何と隔たっている事か。写真に写った現実は何と貧しく、そこから彫琢されて生まれ出たイデアは何と高貴なことか。やはり創造の秘密というものがそこに横たわっているのだろうか。

「この貧しき地上に・・」というフレーズが頭に浮かんだ(私の場合は佐藤史生由来)

美しく崇高なものは、全て理性と計算の所産である―ボードレール

最近、何度かさる高名な画伯のために、モデルを撮影する事があった。画伯は繊細な感性を持った芸術家であって、躍動する美しいバレリーナや、どこか高貴な魅力を持った女性像は、画伯の独壇場と言ってよい。海外で非常に高く評価され、私も密かに尊敬している巨匠である。その巨匠の作品のための撮影なのである。
本職の絵画用モデルでない場合、何十分も動かないで同一のポーズをとり続ける事は不可能である。また作品のモデルがタレントであったりすれば、スケジュールの関係からもそんなに時間をとる事はできない。そこで写真が大いに役立つ。

上記のミュシアもそうだし、ドラクロア、ゴーギャン、ピカソしかり、クリムト、ロセッティしかり、まあ要するに殆どの画家が写真を利用している。また写真は一瞬を止める事ができる。ドガなども写真を用いる事により、動きのあるバレリーナやギャロップする馬の一瞬の形が描けた訳で、さらにジャコモ・バッラとかジェラール・デマシオという作家などは、写真における「ブレ・ボケ表現」を絵画に再現してもいる。

勿論、写真と絵画とでは制作の作法が異なるので、いくら感性の優れた画家であっても素晴しい写真が撮れる訳ではない(私が立派な絵画を描く事はさらに困難だ)。私の知る限り例外はバルテュスの少女達であって、またイサム・ノグチの造形写真は凄かったと土門拳が証言してもいる。

今回のテーマは、

「画家と写真家との関係」

        ―彼方の創造のために撮影すること―

はじめに、大きなディフューズした面でライティングを組み、無用なアクセントが付かないように、しかも自然な影が出来るようにした。これは巨匠の希望である。モデルは画伯が非常に気に入っている、若く美しい(月並みの形容詞だが)女性で、タレント活動もしている由。初めのテスト撮影で早くも巨匠のダメ出しがでた。「私は女性をこのようには見ていない。もっと下からのアングルで撮って欲しい」と。私は長身だったし、画伯は小柄だった。小柄なカメラマン、えてして女性カメラマンが立った人物を撮影するとき、よく鼻の穴がやけに強調されたり、屋外のロケ撮だと背景に電線ばかり写ってしまう事がままある。それは良い写真ではないし、殊に女性は上から見た方が可愛いと私は思っているので、彼等には撮影時に脚立を使うようアドバイスしている。
しかし巨匠にとっては、美しい臈たけた女性は、むしろ仰ぎ見る存在だった訳だ。
なるほどそれは理解できる。以後私は、モデルが立っても座っても画伯の視点から見る事を心がけて、少々辛い中腰の姿勢で撮影するようにした。


A今回の撮影では、衣装については希望があるが、ポーズについては特に巨匠の指示は無かった。ウォームアップを兼ねて、モデルに自由に動いて貰って撮影して行くと、やがて巨匠にインスピレーションがやってくる

「ううっ、もうっとこう、ぐっと煽って」

巨匠はインスピレーションがやってくると、興奮して何を言っているのか分からなくなる。
「もっと男を、こう
(力強い手振り有り)、ううっと!」

言語不明瞭だが、何となく雰囲気は伝わるので、ヘアメイクに言って、多少ワイルドに髪を直してもらったりする。

「もっと脚を見せて」、「今度はこれに着替えて」

と色々なシチュエーションで撮影していく。鏡を使ったり、帽子を取替えて・・・と。

いつしか私は通常の自分の撮影のように無意識にモデルを動かし、形を作っていたのだと思う。腕が細く見えるように、体が綺麗にバランスを保ち、自然に流れるポーズで、しかも美しい顔の輪郭と効果的な影が表れるよう、そして表情・・・。

背景の整理まで含めると、フォトグラファーがコントロールすべき要素は殆ど無限にあり、これはこれで大変な集中力が必要となる。しかし、撮影も佳境に入ると一種のランナーズハイの状態(これはおそらくだが、というのも私が走るのは20メートル以内という事になっているので)に入り、非常に心地よいリズムで撮り進める事ができる。
しかし、そこに大きな落とし穴が・・・存在した。

Photo この時、撮影した画像をモニターで確認した巨匠は一言、

「綺麗な写真だね!」

と珍しく言語明瞭に言ったのだが、その語調には明らかに巨匠が不満足であり、それは巨匠の求める画像ではないよ、という並々ならぬ強い意志が現れていた。ただ駄目と言うのではなく、真っ向から否定すべき何物かがそこにあるようだった。

絵画と写真との関係で広く膾炙している事柄の一つに、「絵画は足し算、写真は引き算」というのがある。真っ白なキャンバスに一から描いていく行為は、なるほど足し算であるし、写真の場合は、現実の中から不必要なもの、在るべきではないものを除き、省き、隠していく。これが引き算に当たる。見たいものだけを見るという、マスキング心理が人間にはある。そこで普段あまり気が付かないのだが、現実の環境というものは案外、猥雑なものなのだ。

とある美しいモデルが、とある場所に佇んでいるとして、絵画ならば彼女の背景に、美しい森や湖を容易に加える事が出来るだろう。彼女は木々を渡る風を頬に感じ、心地良さそうに見えるだろう。しかし実際には、首や頭を横切る邪魔な電線がある、匂いそうな汚れたゴミ箱があって路上にゴミが散乱している、興ざめな看板(美しい看板もあるが、時々「いぼ○」系も)がある訳で、ことに景色が狭いこの国の中では、いかに背景をぼかすか、いかに背景を切り取り隠すかという事に、人物カメラマンは常に腐心している。当然、風景作家はさらに腐心している。
現在はコンピューターで処理が出来るようになり、それはそれは楽になった。とりあえずの撮影が、かなり自由にできるようになったのだ。以前にはこの「引き算」に大変な労力を費やす事が珍しくなかったのである。

今となっては10年以上も前になるだろうか、朝まだきのベネチアでの事を思い出す。まだ暗いうちからホテルを抜け出した私は、懸命にサンマルコ広場を掃除していた。やがて明け初める朝の光と競争で、ゴミ拾いである。仕事で、未明のサンマルコ広場の広告写真を撮影する必要があったのと、もう一点は自分の作品のため、誰もいない広場にマスケラを置いて撮影したかったのである。中世ヨーロッパに黒死病といわれたペストが大流行し、人口の大半が罹患して死亡した。その折、ベネチアの医者達が遺体を運搬するために鼻の長いマスケラ(仮面)を付けた。死体に近づき過ぎないためである。

話を「絵画と写真」のことに戻そう。例えば、アーティストの中に理想のイメージがあるとして(もちろんそのイメージが制作の過程で形作られ、変容する場合も含めて)、絵画と写真とでは、前述したようにアプローチの仕方が正反対であるのかも知れない。そして、写真はやはり、決定的に現実に依存し、それに拘束されてもいる。また在るものを在るがまま撮っても、それは現実を写した単なる記録にすぎない。人物のポーズについても、何らかの緊張感があり、あるいは動きや流れがないとつまらない写真になってしまう。また画面に象徴性があり、あるいはストーリーを持ち、あるいは質感描写が非常に優れている、あるいは被写体の表情が見る者の心を強く動かす、そのような要素がない写真は、作品とはなり得ないだろう。

それに比して絵画では、何気ない普通のポーズ、ただ座っているだけのポーズでも、そのマチュールやタッチ、色遣いが生きているので、芸術作品と成り得るのであろう。

冒頭の作例『読書』について言えば、これはスタジオの中で帽子の衣装でただ撮ったもので、それをややパステル画風にアレンジしたものだ。素材感が出て、少々面白い。もちろんモデルの彼女は、醜いどころかたいそう美人だし、幼少よりクラシックバレエで鍛えた身体は、彼女に美しい姿勢を採らせてもいる。しかし、それでも元画像はつまらない記録写真だった。

最後に掲げる作例『遠雷』は、同じ画像の上に、さらにレタッチを加えている(タイトルはアンドリュー・ワイエスからの好意的?パクリです)


L遠い積乱雲から雷鳴が響いてくる。とても明るい午後だったのに、やがて涼風が立って少し肌寒く感じる瞬間。一雨来そうだ。彼女は少し不穏な気持ちで、変更せざるを得ない今日の予定の事を思い巡らす。しかし人生とはそんなもの・・・

となると、象徴性とストーリーとが生まれ、パステル風のタッチと相まって、少し面白そうな画像だ。

この実験で明らかなように、要するに想像力を働かせ作り変える余地のある写真こそ、画家にとっては望ましいものではないのか。普通、モデルは美しい訳ではなく、ポーズも完全な訳ではない。画家は描く過程で、それを完璧なプロポーションを持ち、意味深いポーズをまとうビーナスに生まれ変わらせる事ができる。あるいはこの世離れした天使や、場合によっては魔女にする事もできる。その創造の過程は、何という快感を伴う得がたい崇高な作業であることだろう(と私は思うのだが)。つまり創造主の仕事こそ、画家の本分に違いない。


「綺麗な写真」
はおそらく、それ自体に綻びがなく、完結してしまっているのであろう。であるとすれば、画家の想像力を固定し、あるいは拘束し、その創造主としての出番を封じてしまうクビキに他ならない。あの時の画伯は、瞬間にそう直観したのではなかったか。

突然の事で、当日の私には、筋道がよく呑み込めない出来事だったが、今ではそう考える事ができる。

ともあれ、この事がきっかけで、「画家と写真家との関係」、ひいては「絵画と写真との関係」について考える気になった訳である。
「綺麗な写真」については、つまり写真とは作法の反対の、彼方の創造のために撮影する事については、一応結論が出たと思う。これは画家と写真家との関係と言い換えても良い。だがそこに潜在する課題「絵画と写真との関係」そのものについては、さらに突き詰めていかねばならないだろう。

現在では、素材の写真を組み合わせるコラージュ技法は当然の事として、写真素材を改造し、PCで絵画作品を作っている作家も大勢いる。少なくともデジタルで撮影し、レタッチするのは、写真館やカメラマンにとって、今や普通の作業となっている。そうなると「絵画と写真との関係」はもはや以前ほど単純では無い。ますます錯綜してきているのである。
それでは写真の本質とは何か。

私の唱える「写真行為の二元性」、すなわち「表現と記録との関係」についての考察は、また別の機会に別の項で述べる予定である。

(お付き合い有難うございます、長くなってしまいましたが、写真論に入ると、べらぼうに長くなりそうなので、止めました)。

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2009年5月17日 (日)

「人形愛」の道を直くせよ!

A

奔放、憧憬、華やぎ、期待と虚無。人生の諸相を表現しているかに見えるこれらの瞳は何を見つめているのだろうか。

その昔、ピュグマリオンは生身の女では到底実現することのできない理想的な女性像を象牙で作った。彼が人形に優しく語りかけると彼女も嬉しそうに応えるように思われた。日ごと彼の心は彼女に寄り添い、やがてそれが生きて彼の愛を受け入れるよう願うようになった。この物語では、彼の願いはついに愛の神アフロディーテに聞き届けられるのだが、ピュグマリオニズムといえば爾来、何故か人形に対する偏愛を言うことになった。

以前、マネキン人形を制作している平和マネキンという会社の依頼を受けて、マネキン人形のカタログ撮影の仕事をしたことがあった。その時の事である。とある暑い日、窓の外には射るような夏の陽光が降っていた。川端にある工場の、冷房のない大きな倉庫で、3日に渡って撮影が行われた。

カタログの撮影は商品撮影とイメージ撮影とを平行して行う。イメージ撮影ではマネキンを人間達の生活空間に置いて、カタログを見るクライアントが感情移入しやすいように、さらに店舗を訪れた客達がマネキンに托した自己のあるべきイメージを喚起しうるように、撮影してゆこうという方針になった。つまり人形を人間生活のリアル空間に置いて、物語を作ろうというコンセプトだった。そして撮影の仕事は、そのマネキン達の産みの親である制作者が必ず立ち会って行われた。

作業を始めると、作者達は映像になった自分の作品が本物のようだといって喜んだ。実際、新世代のマネキンは実によくできていて、仕上げのメイクがまた素晴らしい。実物の人間と見紛うほど、いや実物の人間よりも遥かに美しい出来なのである。
しかし、彼女・彼等たちをリアル空間において、人間として取り扱おうとするときに、決まって微かな雑音が生じ、やがて違和感となって胸に滞る感じがして、撮影の間中、私はそれが気になった。言ってみれば人形は人形であって、嘘くさく、実写された現実は如何ともしがたく味気なく思えた。

ところが、絵コンテで予定した背景のいくつかが、撮影時に間に合わず、仕方なく、いわゆる書割で撮影を始めた時に、少なくとも私にとっては劇的な事が起こった。
マネキン人形は実際の人間をモデルに(工場のパーティションで区切られた一角がモデルのポーズのための部屋だった)、クレイの塑像から制作するのだが、といってもあまりにリアルで生々しいと、服よりも人形が主張してしまうか、服が美しく見えないという事態になる。そこで人形のプロポーションや顔貌は、忠実に人間をかたどったものではなく、いわば衣装のための理想形であると言える。その意味でピュグマリオンの作った人形に似ていたが、いずれにしても完全にアーティフィシャルな作品だった。

図らずも私の行ったことは、彼女たちをアーティフィシャルな空間に置いてみることだった。背景はリアルな景色ではなくスタジオの書割やプレーンバックで演出する。例えば女スナイパーが斜光に照らされ、背後に影を落とすレンガ塀も書割だったし、雨の日に美少女が吐息まじりに外を窺うガラス窓も、代用品のアクリル板をセットした。マーメイドの佇む海中にいたっては、青い布とバックライトで作った舞台装置とした。すると、面白いことに、そこに完結した彼等の世界が生じるのを私は見、彼等が水を得た魚のように自由に、実に生き生きと動き出し、楽しげに遊ぶのがわかったのだ。もはや彼等は製造番号を打たれて倉庫の什器に山積みにされた単なる物質ではなく、さらに翻って人間の玩物でも、分身でもなかった。こうでなくてはならなかったと、ある単純な事を私は理解し、その後、撮影は順調に運んだのだった。

ピュグマリオンは理想の女性像を追い求めた物語だったわけだが、彼の欲望は考えてみれば随分自分中心の自己愛的なものである。もしもピュグマリオニズム「人形愛」と言うのならば、ピュグマリオニズムは生きている人間の代替物としての、あるいはフェティッシュとしての人形への愛ではないはずである。穢れなく完結し、潰えず飽かずに夢見続ける彼等への、またその住むところの不壊の世界への、切なる憧憬であるべきだろう、とその時私は考えたのである。「人形愛」の物語であれば、ピュグマリオンの願いが叶う時、彼自らが人形となるべきだったのである。

つまりピュグマリオニズムを「人形愛」と翻案するのは間違いであって、欠点の無い、無害で、ご主人様にかしずく理想的な女性を夢見る「オタク的自己愛」と考えるべきで、これは現代のこの国では、かなりありふれた心性なのかも知れない(フィギュアニズムと命名しよう)。しばしばゲームのキャラクターに対しても、同様の感情移入が起こっているだろう。少なくない人口の自己愛者達が市民権を獲得しつつあるのかも知れない。
そこで興味深いのは、マネキン人形の偉大な製作者達である。しかし、彼等をどのように位置づけるべきかは、残念ながら留保せざるを得ない。肝胆相照らすお付き合いをする程、時間的余裕も無かった訳である。もともとは油絵やデザインを学んだ人たちで、意外なことに彫刻の専門家ではなく、はなから人形が作りたい人たちではなかったのだ。まあ、少なくとも彼等には「人形愛」を語る資格があるに違いない。撮影の間、常に人形に感情移入し、人形の側から現実を見ていたからである。

この時の経験を通じて人形に対する正しい偏愛の形を、私も少しマスターしたように思うのだった。だがしかし・・・何の事はない、要するに「リカちゃんハウス」が正しかったと、言えなくもないのである。

(写真小さくて見にくいかもしれませんね。人形のウイッグは全て、スタジオ☆ディーバのメイクスタッフがカット&セットしたものです。人毛ではないので特別な技術が必要なのです!)

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2009年5月13日 (水)

メイクアップ!(身体を超えるカラダ)

Dsc_4256wllc_4張り巡らされた罠の向こうに、メイクアップした女性が捕らえられている。射るような眼差しをもって、彼女は社会のしがらみに、あたかも挑んでいるように見える。

今回のテーマはメイクアップ

メイクアップはそもそも単に整えて作り上げるというに止まらず、人間の精神史においては、その根底に呪術的な意味を潜在させている。ボディーメイクを含め、人体に施した粉飾は、自分を霊に化体して強い者となるために、また翻って魔を除けるための意味を持っていたのだから。
例えば、リップスの赤(紅)は古来、魔を入れない、また同時に出さないという結界を表現したであろう。鳥居の赤と同様にである。現在でも、ある種の精神疾患の人たちの、口が異様に赤く強調されたメイクに、自己を理不尽な外界から防衛するのだという、呪術的な意味を読み取る事ができる。これは人間のアーキタイプでもあるので、そこには実に多くの人に共通する無意識を垣間見るのである。敢えて言うならば、それは、自分の有限な身体性を超えようとする、悲しき願いなのではなかったか。

現代の文明社会では、市場経済の原理に沿って流行が生み出され、メイクアップも遊び心に華やぎを添えている。透明感のあるファンデーションとハイライト、的確に入れられたシャドウ、上手にメイクされた女性の顔は、洗練されて美しい。
Yumiwel_3
だが多くの女性がメイクアップによって社会とのインターフェイスを獲得し、あるいは無防 備を脱して、武装できたと感じるのはどういうことだろう。私には単なる習慣の問題ではないように思えるのだ。冒頭で述べたように、メイクアップは元来、単純な性差の強調という事ではなかった。かつて顕著であったその原始の本質は、現代においても秘かに伏流し、時折にかつての片鱗を見せる。例えば、フォーマルな場において、リップスは赤を用いる事になっているのは何故だろう。赤は軍服の色、戦いの色、魔除けの色である。さらに顔の左右、パーツのバランスを人工的に整えて、ある種の均整美を装着していく。つまりメイクアップは、例えば男性が、夏の盛りでもビジネススーツに身を固め、ネクタイを締め、ペルソナによって自我を武装するのと同様に、女性が身を引き締めて、社会に臨む戦いの装束でもある。少なくともこの「勝負」顔の本質に対峙したときに、素顔こそ無防備で愛おしいと、少なくない男性が思うかも知れない。

もう一度、作品に立ち返ってみよう。
であれば、彼女を捕らえている蜘蛛の糸は、実は彼女自身の身体性そのものなのであり、それ以外のものではない。
人間にとっては限られた春秋の中で、それでも、あなたが本来の自分を越えて輝ける瞬間が必ずあるだろう。そして、その人生の重大な局面をクリアーするために、自分を超える力が必要と感じる瞬間が、必ずあるだろう。ただ祈るのも悪くないかも知れない。しかし、少なくとも、あなたの未来を開いてゆくアクティブな戦いにおいて、身体的にも精神的にも、メイクアップが有効な武器となり得る事は間違いあるまい。こう書いただけで、いくつかのシークェンスが私の脳裏にフラッシュバックしてくる。

太古から始まっている、自分の身体性を超えようという戦いの片鱗が、彼女の顔に刻印されて護符となり、彼女の挑戦が始まった。

Model: Yumi
Photo & Design:Tonno 
Hair & Make-up:Emi 

(現在、この画像はスタジオ☆ディーバのシンボルイコンとなっています)

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