« メイクアップ!(身体を超えるカラダ) | トップページ | 綺麗な写真。画家と写真家との関係は・・・ »

2009年5月17日 (日)

「人形愛」の道を直くせよ!

A

奔放、憧憬、華やぎ、期待と虚無。人生の諸相を表現しているかに見えるこれらの瞳は何を見つめているのだろうか。

その昔、ピュグマリオンは生身の女では到底実現することのできない理想的な女性像を象牙で作った。彼が人形に優しく語りかけると彼女も嬉しそうに応えるように思われた。日ごと彼の心は彼女に寄り添い、やがてそれが生きて彼の愛を受け入れるよう願うようになった。この物語では、彼の願いはついに愛の神アフロディーテに聞き届けられるのだが、ピュグマリオニズムといえば爾来、何故か人形に対する偏愛を言うことになった。

以前、マネキン人形を制作している平和マネキンという会社の依頼を受けて、マネキン人形のカタログ撮影の仕事をしたことがあった。その時の事である。とある暑い日、窓の外には射るような夏の陽光が降っていた。川端にある工場の、冷房のない大きな倉庫で、3日に渡って撮影が行われた。

カタログの撮影は商品撮影とイメージ撮影とを平行して行う。イメージ撮影ではマネキンを人間達の生活空間に置いて、カタログを見るクライアントが感情移入しやすいように、さらに店舗を訪れた客達がマネキンに托した自己のあるべきイメージを喚起しうるように、撮影してゆこうという方針になった。つまり人形を人間生活のリアル空間に置いて、物語を作ろうというコンセプトだった。そして撮影の仕事は、そのマネキン達の産みの親である制作者が必ず立ち会って行われた。

作業を始めると、作者達は映像になった自分の作品が本物のようだといって喜んだ。実際、新世代のマネキンは実によくできていて、仕上げのメイクがまた素晴らしい。実物の人間と見紛うほど、いや実物の人間よりも遥かに美しい出来なのである。
しかし、彼女・彼等たちをリアル空間において、人間として取り扱おうとするときに、決まって微かな雑音が生じ、やがて違和感となって胸に滞る感じがして、撮影の間中、私はそれが気になった。言ってみれば人形は人形であって、嘘くさく、実写された現実は如何ともしがたく味気なく思えた。

ところが、絵コンテで予定した背景のいくつかが、撮影時に間に合わず、仕方なく、いわゆる書割で撮影を始めた時に、少なくとも私にとっては劇的な事が起こった。
マネキン人形は実際の人間をモデルに(工場のパーティションで区切られた一角がモデルのポーズのための部屋だった)、クレイの塑像から制作するのだが、といってもあまりにリアルで生々しいと、服よりも人形が主張してしまうか、服が美しく見えないという事態になる。そこで人形のプロポーションや顔貌は、忠実に人間をかたどったものではなく、いわば衣装のための理想形であると言える。その意味でピュグマリオンの作った人形に似ていたが、いずれにしても完全にアーティフィシャルな作品だった。

図らずも私の行ったことは、彼女たちをアーティフィシャルな空間に置いてみることだった。背景はリアルな景色ではなくスタジオの書割やプレーンバックで演出する。例えば女スナイパーが斜光に照らされ、背後に影を落とすレンガ塀も書割だったし、雨の日に美少女が吐息まじりに外を窺うガラス窓も、代用品のアクリル板をセットした。マーメイドの佇む海中にいたっては、青い布とバックライトで作った舞台装置とした。すると、面白いことに、そこに完結した彼等の世界が生じるのを私は見、彼等が水を得た魚のように自由に、実に生き生きと動き出し、楽しげに遊ぶのがわかったのだ。もはや彼等は製造番号を打たれて倉庫の什器に山積みにされた単なる物質ではなく、さらに翻って人間の玩物でも、分身でもなかった。こうでなくてはならなかったと、ある単純な事を私は理解し、その後、撮影は順調に運んだのだった。

ピュグマリオンは理想の女性像を追い求めた物語だったわけだが、彼の欲望は考えてみれば随分自分中心の自己愛的なものである。もしもピュグマリオニズム「人形愛」と言うのならば、ピュグマリオニズムは生きている人間の代替物としての、あるいはフェティッシュとしての人形への愛ではないはずである。穢れなく完結し、潰えず飽かずに夢見続ける彼等への、またその住むところの不壊の世界への、切なる憧憬であるべきだろう、とその時私は考えたのである。「人形愛」の物語であれば、ピュグマリオンの願いが叶う時、彼自らが人形となるべきだったのである。

つまりピュグマリオニズムを「人形愛」と翻案するのは間違いであって、欠点の無い、無害で、ご主人様にかしずく理想的な女性を夢見る「オタク的自己愛」と考えるべきで、これは現代のこの国では、かなりありふれた心性なのかも知れない(フィギュアニズムと命名しよう)。しばしばゲームのキャラクターに対しても、同様の感情移入が起こっているだろう。少なくない人口の自己愛者達が市民権を獲得しつつあるのかも知れない。
そこで興味深いのは、マネキン人形の偉大な製作者達である。しかし、彼等をどのように位置づけるべきかは、残念ながら留保せざるを得ない。肝胆相照らすお付き合いをする程、時間的余裕も無かった訳である。もともとは油絵やデザインを学んだ人たちで、意外なことに彫刻の専門家ではなく、はなから人形が作りたい人たちではなかったのだ。まあ、少なくとも彼等には「人形愛」を語る資格があるに違いない。撮影の間、常に人形に感情移入し、人形の側から現実を見ていたからである。

この時の経験を通じて人形に対する正しい偏愛の形を、私も少しマスターしたように思うのだった。だがしかし・・・何の事はない、要するに「リカちゃんハウス」が正しかったと、言えなくもないのである。

(写真小さくて見にくいかもしれませんね。人形のウイッグは全て、スタジオ☆ディーバのメイクスタッフがカット&セットしたものです。人毛ではないので特別な技術が必要なのです!)

|

« メイクアップ!(身体を超えるカラダ) | トップページ | 綺麗な写真。画家と写真家との関係は・・・ »