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2009年8月

2009年8月10日 (月)

ランドスケープ・・・夏はやっぱり海ですな!

少し前に行ったオーストラリアでの休日。夏なので海の画像です。


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「どうだい、いいイルカの写真が撮れたかい?」
セスナ機で私をモンキーマイアまで運んできた退役軍人の男が聞いた。
「まあまあだね」
カメラのモニターで今撮影したばかりの画像を見せると、彼は片手でイルカが泳ぐまねをして、「シュー」という音を出した。動きがあって、泳いでいるねという意味らしい。
サングラスの奥の目が笑っている。

モンキーマイアは自然に餌付けされたイルカが見られるのでちょっと有名だが、これがパースからセスナ機で5時間ほど飛ばねばならない。死ぬかと思うほど窮屈な機内。私はしばらくパイロットの隣の副操縦席で縮こまっていたが、流石に我慢できなくなり、手足を不完全に伸ばしながら精一杯のあくびをした。その時だった。突然、セスナ機が急旋回し、しかも急降下を始めたのだ。やばい!退役軍人のパイロットはすごい叫び声を上げ、それでも何とか機体を立て直した。
「やるじゃないか」私は心の中で彼に声をかけたのだが、しかしこの危険飛行はエアータ-ビュランスでも何でもなく、私の足がラダーペダルを思い切り踏みつけたのが原因だったようだ。
で、以後はあくびも禁止になってしまった。

Photo_3
シェルビーチ
は貝殻しかない、天国的に白くどこまでも続くビーチ。はるか沖まで行って見えなくなりそうなのに、水深は膝までしか無い。写真の撮りようがなくただぼんやりと眺めていたものだ。この小さな貝殻が堆積すると長い時間と圧力の末、結晶化して固まる。この当たりではそれを地中からブロックで切り出し、家を作ってきた。
白い美しい貝殻をペットボトルに詰め、お土産として持って帰った。実家ではそれを植木鉢に敷き詰めた。鉢は綺麗になったが、植木が全て枯れてしまった。よく洗ったにも拘わらず、塩分が抜けなかったようだ。

Photo_4
海の彼方に伸びようとしている。すでに枯れてしまったというのに、なおも波濤を渡って行こうと・・・そんな意志を感じる造形だった。

ここは小さな島なので散歩しながら一周しても全く苦にはならない。生態系が厳しく守られてきた小さな楽園。清浄な宝石のような土地。

Green_island 今日の午前中、私はビーチチェアーに横たわりながら、「ああ、太陽がいっぱい!」とか言ってみたのだが、ちょうどその時、目の前の海に一機の飛行艇が降りてきた。砂浜で遊ぶ二人の金髪の子供たちの背景となって、機影は次第に大きくなり、やがて着水すると、かなり水際まで来てアンカーを下ろした。まずポーターが腰まで水に浸かりながら降り立った。私は、彼が頭の上に革の四角いトランクを載せて、ゆっくり歩き始め、続いて数人のファミリーが、上陸のため飛行艇からゴムボートに乗り込むのを見ていた。勿論、私には彼等に「俺の島から出ていってくれ!」と言う権利はなかったが(第一私の島ではないし・・・が、先住権というか古参というか、わずか数日分の優越感なのだろう、この発想は)、しかし、傍若無人のヴァカンス客が押し寄せて来るならば、デリケートな島の生態系に悪影響を及ぼす事も有りうるだろう。

しかし、自家用の雰囲気を醸し出していたあの飛行艇、たとえチャーターしたものにしても、一味はかなりこの島に慣れているようだった。私の方がよほど、よそ者だったに違いない。

最近、この島では観光客に餌付けされてしまった鳥の群れが問題になっているそうである。残念な事だ。

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2009年8月 6日 (木)

自分の顔を持つ女・・・

Photo_2古い写真の中で大切そうに顔を抱えている女性。プリミティブで個性的な風貌だが、どこか遠い絵のようで、時間に埋もれつつある肖像。

実は、この女性が抱えるのは自分の顔なのである。この顔は合成ではなく、前回、彼女が自分のタレント活動用の宣材写真として撮ったもので、その顔の部分を等倍に引き伸ばし、仮面に仕立て、そのマスクを大事そうに抱えて貰ったのである。

自分のなりたい顔、そうあらねばならない顔、実際にあるところの顔・・・。
本当の自分の顔とは、自分らしい顔とは何だろうか。日々、肖像写真を撮影していると、どうしても考えざるを得ないテーマである。

土門拳はその人らしい本来の顔を撮ろうと考え、わざと怒らせたり、わざと被写体の構えのタイミングを外して撮影したりした。例えば、画家の梅原龍三郎が、あまりに執拗な撮影に癇癪をおこし、籐椅子を投げつけたところ、「それです、もう一枚お願いします」と叫んだとか。
まあ話は面白いのだが、そういった「演出」をして撮影された「顔」が、その人の本来なのかと言うと、そこには疑問がある。それは楽屋裏には違いないが、それがその人の本質かと言うと考えてしまう。土門氏の肖像写真にしても全てがそうではなく、むしろ被写体が力を抜いた瞬間に、素直に撮影したものが多いと思う。

しかし土門先生は女優に嫌われた。丸いものをより丸く、低いものをより低く撮影したからだと言われている。私に言わせれば、そのまま撮っただけの事だろうと思うのだが。

学生の時、うちのスタジオでカメラマンのアシスタント修行をし、文芸春秋に就職した女性カメラマンがいる。先日、文筆家の林真理子先生に怒鳴られたそうである。
「あんたなんか嫌い、二度と来ないで」と。
随分嫌われたものだが、私のかつての弟子に失敗はあるまい。が、ただあるものをあるように撮ってしまった事が、落ち度と言えば言えるのかもしれない。

寄り道になるが、私は男性に対するよりも女性に対する方が、数倍神経を使ってファインダーを見ている。男性なら個性になる部分が、往々にして弱点になる場合があり、これはかなりキャリアのある女優さんやタレントさんでもそうなのである。申し訳ないが、「美の共犯者」としては「粗探し」が必要条件なのだ。そこを補正し、カバーし、あるいはエクセレントな個性(微妙な崩れがあるが故に美しいというような)に転換する作業には、全神経を集中する。これはヘアメイクも含めた内輪の共同作業であり、そこでの信頼関係が必須となる。
そこで私の場合、スタジオを離れて、はじめて、普通のと言うか、素直な目が万物に向けられる。 
だから、ふいに街角で、以前撮影したモデルさん達に偶然出会い(私からは決して気づかない)、肩をたたかれたりして挨拶されると、「おおっ、こんな凄い見知らぬ美人が・・」という具合で、「一般人」の私は思わずドギマギしてしまう。ファインダーを覗いて初めて誰だか思い出すというのも一種の職業病なのかもしれない。

話がずれてきたようだが、要するに社会的な活動をする人間は、そうである自分の顔だけでなく、そうであるべき「自分の顔」というものがあって、撮影する側もその所を斟酌して、被写体と共に工夫し、そこに近づく努力をするべきなのだと思う(勿論、報道やルポルタージュではこの限りではないが)ここであるべき「自分の顔」というのは社会に対する役割・態度と言って良く、ユング心理学ではそれをペルソナといっている。

ペルソナとは元々古代ギリシャの演劇で使用した仮面の事である。

母校の大学に演劇博物館というのがあって、そこにペルソナのレプリカが展示されているのを見た事がある。それは頭から役者が被るバケツのようなもの、その演ずる役割が遠くからでも明確に分かるようにするためのものであった。王様は王様のペルソナ、乞食は乞食のペルソナがある。古代の円形劇場では、遠くからでは声は通るが人物が判別しにくかったからである(その後、この役割仮面の意味がパーソンやパーソナリティーへと派生していく)。


例えばタレントとしての顔、政治家としての顔、学校の先生としての顔、会社員としての顔、同じポジションにおいても上司に対して、あるいは部下に対して、各々違う顔があるだろう。私たちは努力し、苦労しながら自分の役割たる顔を獲得していくのであって、自分が生きるべき社会に向けられたそのペルソナ・仮面こそが、人間の生き方を表す本当の面(オモテ)であり、本面と思われるものが、実は未開で未分化な素材に過ぎないのであろう。前者が人間の顔だとすれば、後者は獣の貌ではないのか。
坂部恵氏が「仮面と人格」で提起しているテーゼも、このような事だと思うのだが、もとより人間の本能は獣であっても、本質は獣ではない。間柄関係の中で生きる人間は、社会の中でペルソナ(仮面)によって自分を定位する動物なのだ。



彼女が抱える仕事用の顔は、社会的なインターフェースであり、それは大切なものなのである。その顔は、しかし、やがて年月に侵食されていく本体の肖像とは異なり、何か別の生き物のように、青白く影を曳いて、生きているようだ。

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