自分の顔を持つ女・・・
古い写真の中で大切そうに顔を抱えている女性。プリミティブで個性的な風貌だが、どこか遠い絵のようで、時間に埋もれつつある肖像。
実は、この女性が抱えるのは自分の顔なのである。この顔は合成ではなく、前回、彼女が自分のタレント活動用の宣材写真として撮ったもので、その顔の部分を等倍に引き伸ばし、仮面に仕立て、そのマスクを大事そうに抱えて貰ったのである。
自分のなりたい顔、そうあらねばならない顔、実際にあるところの顔・・・。
本当の自分の顔とは、自分らしい顔とは何だろうか。日々、肖像写真を撮影していると、どうしても考えざるを得ないテーマである。
土門拳はその人らしい本来の顔を撮ろうと考え、わざと怒らせたり、わざと被写体の構えのタイミングを外して撮影したりした。例えば、画家の梅原龍三郎が、あまりに執拗な撮影に癇癪をおこし、籐椅子を投げつけたところ、「それです、もう一枚お願いします」と叫んだとか。
まあ話は面白いのだが、そういった「演出」をして撮影された「顔」が、その人の本来なのかと言うと、そこには疑問がある。それは楽屋裏には違いないが、それがその人の本質かと言うと考えてしまう。土門氏の肖像写真にしても全てがそうではなく、むしろ被写体が力を抜いた瞬間に、素直に撮影したものが多いと思う。
しかし土門先生は女優に嫌われた。丸いものをより丸く、低いものをより低く撮影したからだと言われている。私に言わせれば、そのまま撮っただけの事だろうと思うのだが。
学生の時、うちのスタジオでカメラマンのアシスタント修行をし、文芸春秋に就職した女性カメラマンがいる。先日、文筆家の林真理子先生に怒鳴られたそうである。
「あんたなんか嫌い、二度と来ないで」と。
随分嫌われたものだが、私のかつての弟子に失敗はあるまい。が、ただあるものをあるように撮ってしまった事が、落ち度と言えば言えるのかもしれない。
寄り道になるが、私は男性に対するよりも女性に対する方が、数倍神経を使ってファインダーを見ている。男性なら個性になる部分が、往々にして弱点になる場合があり、これはかなりキャリアのある女優さんやタレントさんでもそうなのである。申し訳ないが、「美の共犯者」としては「粗探し」が必要条件なのだ。そこを補正し、カバーし、あるいはエクセレントな個性(微妙な崩れがあるが故に美しいというような)に転換する作業には、全神経を集中する。これはヘアメイクも含めた内輪の共同作業であり、そこでの信頼関係が必須となる。
そこで私の場合、スタジオを離れて、はじめて、普通のと言うか、素直な目が万物に向けられる。 だから、ふいに街角で、以前撮影したモデルさん達に偶然出会い(私からは決して気づかない)、肩をたたかれたりして挨拶されると、「おおっ、こんな凄い見知らぬ美人が・・」という具合で、「一般人」の私は思わずドギマギしてしまう。ファインダーを覗いて初めて誰だか思い出すというのも一種の職業病なのかもしれない。
話がずれてきたようだが、要するに社会的な活動をする人間は、そうである自分の顔だけでなく、そうであるべき「自分の顔」というものがあって、撮影する側もその所を斟酌して、被写体と共に工夫し、そこに近づく努力をするべきなのだと思う(勿論、報道やルポルタージュではこの限りではないが)。ここであるべき「自分の顔」というのは社会に対する役割・態度と言って良く、ユング心理学ではそれをペルソナといっている。
ペルソナとは元々古代ギリシャの演劇で使用した仮面の事である。
母校の大学に演劇博物館というのがあって、そこにペルソナのレプリカが展示されているのを見た事がある。それは頭から役者が被るバケツのようなもの、その演ずる役割が遠くからでも明確に分かるようにするためのものであった。王様は王様のペルソナ、乞食は乞食のペルソナがある。古代の円形劇場では、遠くからでは声は通るが人物が判別しにくかったからである(その後、この役割仮面の意味がパーソンやパーソナリティーへと派生していく)。
例えばタレントとしての顔、政治家としての顔、学校の先生としての顔、会社員としての顔、同じポジションにおいても上司に対して、あるいは部下に対して、各々違う顔があるだろう。私たちは努力し、苦労しながら自分の役割たる顔を獲得していくのであって、自分が生きるべき社会に向けられたそのペルソナ・仮面こそが、人間の生き方を表す本当の面(オモテ)であり、本面と思われるものが、実は未開で未分化な素材に過ぎないのであろう。前者が人間の顔だとすれば、後者は獣の貌ではないのか。
坂部恵氏が「仮面と人格」で提起しているテーゼも、このような事だと思うのだが、もとより人間の本能は獣であっても、本質は獣ではない。間柄関係の中で生きる人間は、社会の中でペルソナ(仮面)によって自分を定位する動物なのだ。
彼女が抱える仕事用の顔は、社会的なインターフェースであり、それは大切なものなのである。その顔は、しかし、やがて年月に侵食されていく本体の肖像とは異なり、何か別の生き物のように、青白く影を曳いて、生きているようだ。
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