内なる殿堂 -胎内空間・カサバトリョ-
(1)プロローグ
東京シティー、夜のウォーターフロント。高層ビル群を背景にして高速道路のジャンクションが遠く眼下に見える。時折、飛び立つ旅客機の点滅するライトが夜空を横切っていく。一面が窓になったホテルの部屋の中で、私はこの現代文明の粋ともいうべき光景を眺めていた。高速道路の車のライトが列を成して流れていくので、画面にある一定の動きが与えられいつまでも見飽きる事がない。昔、人類がはじめて土器の上に幾何学文様を刻して以来、私達の合理的精神の旅が始まり、ようやくここまで来たのだ。それらの光は銀の粒をまぶしたように美しい。微かに低い街鳴りが間断なく聞こえている。人工的で魅力的なランドスケープだ。
だが、しばらくすると、どこか心の中で微かな声がするように思った。それは通奏低音のように止む事なく、次第に気になってきて、私を落ち着かなくさせた。今まではこんなことは無かったと思うのだが、耳を澄ませてみると、その声は「私はここに居る」と囁いているようだった。
一体、何に対して、何者に対峙して、そのように宣言しなければならないのか、皆目見当が付かなかったのだが、明らかにその声には深い孤独の影があった。
ふと、先日バルセロナで私が身をおいた空間は、こことは何と異なるのだろう、という考えが私の頭をよぎった。そこでは決定的に活動を止めてしまいたい位、護られ落ち着き、深く寛ぐ感覚があった。それはある意味で「胎内空間」と言っても良いのかもしれなかった。本来、「人の居るべき場所」というのはこういうものなのか、そう思った事を覚えている。今私が考えているのは、アントニオ・ガウディの幾つかの建築空間の事なのである。
今回は先日の小旅行で垣間見た、スペイン・モデルニスモ建築の二人の天才について、またガウディとサグラダファミリアとの関係について、現地で体感した事、また最近までに考えたことを書いてみたい。(長くなるかも知れません。時間のある方、お付き合い下さい)。
(2)ティトワン ―死・そして誕生以前―
盛夏の昼下がり、私はバルセロナのティトワン広場に佇んでいたのだった。ヨーロッパでは、大きな交差点はリングロードになっている。車を運転していて交差点に出ると、ドーナッツのようなリング状の道路に突き当たる。一定の方向に回って自分の行きたい方向に出るのである。ティトワンは非常に大きなリングロードで、その中が公園になっていた。ここからは四方が見渡せる。南に伸びる道路を辿ると、複数の王冠を戴いたビラセカ作の特徴的な凱旋門が見える。これは1888年に開催されたバルセロナ万博のモニュメントで、様式的にはネオゴシックだそうだが、実にスペイン的なデザインだ。ここを通るのが日課だった「彼」は、その日も、あの凱旋門を目にしていただろうか。目を転ずれば、公園の中心には大きなブロンズの群像が、高さ3メートルはあろうと言うコンクリートの台座に乗っている。そこから少し離れた一隅には黄色く塗装されたブランコがあって、女児が立ち乗りをし、その傍らでは若い母親が子供を見守っている。他に人影は見当たらず、ブランコを漕ぐ軋みと母子のスペイン語の会話が、周りの喧騒の中で切れ切れに聞こえてくる。
昔は馬車も走り、路面電車がこの交差点を行き交っていたはずだが、今では軌道の上が舗装され、路面は高くなり、周囲の建物も変わってしまった。「当時」を思わせるのは同じ「ティトワン」という名を持つレストランの入った建物で、それには年経りた風格があるようだった。1926年6月7日、夕べのミサに出席するため、徒歩でサグラダファミリアを後にし、北からこのリングロードに出て、サン・ネリ教会に向かう西の大通りに入った所で、偉大なる建築家、アントニオ・ガウディは路面電車にはねられ、その「神の建築家」としての活動を止めたのだった。ここがその場所だった。
彼はその時「サグラダファミリア教会」の偉大な建築家だったが、あまりに浮浪者のような身なりだったため、瀕死だったにもかかわらず4台の車が彼を病院に運ぶ事を拒否したのだと言う。上着のボタンは全て無くなり、安全ピンで前を留めていた。幼少時からリューマチだった事もあって、晩年は通常の靴が穿けず、ボロ布を足にまいていた。だが、誰もガウディだとは気が付かなかったその「浮浪者」こそは、アッシジの聖者にも負けない程の修道僧そのものだったし、建築の才能は遙に勝っていた。彼は生涯独身であり、晩年は「神の家」の創造に全ての時間を捧げ、周囲からは「聖人」とみなされていた。
サグラダファミリアは、財政難から何度も建設中断の危機に見舞われたが、ガウディは自ら人々の布施を請い門戸の前に立った。自分は報酬を受け取らず、苦行僧さながらの清貧を通し、全てを聖堂につぎ込んできたのだ。ガウディが亡くなった時、未完の聖家族教会はそれ自体の持つ特異性と、その生みの親の特異性との故に、広く国外にも知られるカタルーニャの一大シンボルとなっていた。自分の葬式は簡素にという彼の遺志にもかかわらず、ガウディの葬儀は全市民の参列する盛大なものとなったが、それは人々の自由意志によるもので、かの国ではいまだかつてそのような出来事は無かったという。
アントニオ・ガウディというと、日本でもサグラダファミリアの建築家としてつとに有名だが、その特徴の現れた傑作は他にも多数ある。最も有名なのが「カサバトリョ」、「カサミラ」、そして「グエル公園」であろう。「グエル本邸」と「グエル別邸」、その他にも岡本太郎絶賛の「コロニアル・グエル教会」なども良く知られている。
私は特に「バトリョ邸」が好きだ。破砕タイルに覆われた外観も良いが、内装はさらに素晴らしい。それらはいずれも揺らぎ、くねり、流れ、自然の造詣が随所に現れる。恐竜の脊柱のような手すり、洞窟に開いたような窓、柔らかく滴り、あるいは渦巻く天井、水中を漂うような青い波紋の居間、そして随所に現れるカテナリー曲線。実際にその空間に身を置いてみると、それらは奇抜なのではなく、全く自然で深い親しみがあり、この上なく寛げる人間の場所なのだった(観光シーズンだったので遺憾ともしがたく人が多かったが)。
冒頭の東京湾岸シーンが前頭葉的だとすれば、バトリョ邸空間は大脳辺縁系的というべきかも知れない。前者は、より高く、より遠くへ進めと、意識を鼓舞するのだが宇宙空間に対峙するような孤独を伴い、後者は人間意識の故郷であって、どこか懐かしく、落ち着いて安らかであり、いつでも帰っておいでと招いている。駆け出しの頃は、ゴシックを基盤にムデハル様式を取り入れた設計をしていたようだが(スペインはレコンキスタ以前のイスラムの影響が非常に強く、その文化はアランブラ宮殿に見られるようにキリスト教圏よりも、遥かに進んでいた。ムデハルはその特徴を吸収・融合した様式といわれる)、円熟期のガウディのデザインは明確に自然回帰であり、同時に実は人間の無意識に深くかかわっていたのだと私は思っている。それは彼のイメージが自然をそのまま写したものではなく、非合理で類のない象徴性と曖昧な無意識の形象とに満ち満ちているからである。前述した「胎内空間」という考えは、だからそれほど的外れではないだろうと思う。ガウディのこの無意識からのイメージは、自我が目覚める以前の、私達の集合無意識にも通じるもので、その何ほどかが、これらの空間には漂っている、少なくとも私にはそう感じられた。
後日、バトリョ邸について調べている時、この建物の外観はドラゴンであり、サン・ジョルディ(西語表記)のドラゴン退治が、モチーフではないかという説を知った。提唱者は日本人の田中裕也氏で、地道にガウディ建築の実測を続けている建築家である。
それによると屋根に乗る立体十字は剣の柄であって、その刃がドラゴンの体を貫いていると言うのだ。私には巨大ニンニクとしか見えなかったのだが、言われて見ればそういう感じもする。確かに屋根はドラゴンの鱗そのものだ。であるとすれば、館内はドラゴンの体内であって、私の「胎内空間」という体感印象もうなずける。しかし、ファッサードは、そうなると、なにやら獅子舞の獅子の顔に見えてきてしまうのだが・・・
<つづく>
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