ギャラリー⑤<ユリの少女>
さて、タイトル画像と同様に花粉をモチーフにした作品です。ユリは聖母マリアのアトリビュートなので他の花を使います。「悪い虫がつく」という表現がありますが、逆に虫を捕らえて栄養にする食虫植物というのもある訳で、それ故の美しさも・・・・最後は進化して電脳アンドロイドになったようで・・・
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Photographer:Tonno
Model:Maru
Hair & Make-up:Kumi
Make-up Director:Sun
N神父様、タイトルの「ユリの少女」は単なるパロディーではありません。どうか誤解しないでいただきたいのです。私はあなたの純粋で透徹した精神を今でも信じているのですから。
あの日、あなたはローマの細い裏路地を足早に歩を進め、私たちをサン・ルイジ教会へと導いて行きました。あなたはその教会にある一枚の絵を、どうしても見せたいのだとおっしゃったのでしたね。
それは数奇な運命(殺人を犯し、逃亡し、熱病で死んだ)をたどったバロックの巨匠、カラヴァジオの「マタイのお召し」という絵でした。コントラストのある斜光の中に一群の人々が浮かび上がっていました。光源に近い右の方からイエスが取税人マタイを指さし「来て私に従いなさい」と言った瞬間です。金を勘定していたマタイは、まるでその運命を予め覚悟していたかのように、うなだれたままの姿勢で凍りついています。当時、取税人はローマの手先として蔑まれていた生業でした。その自分を何とキリストは弟子として指名したのです。聖書には一言「すると彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。
あなたは絵の前に立つと、押し殺したような声で「私の人生にもこれと同じ事が起こったのだ」とおっしゃったのでしたね。私は今でもその瞬間を忘れる事ができません。
バチカン放送の日本語を担当していたあなたは、ある日突然、ローマ法王(前ヨハネス・パウロⅢ)に呼ばれたと言うのです。バチカン宮殿で謁見したローマ法王は、一言目に「今日からここはあなたの家です。」と実に驚くべき事を言われました。つまり今日から以後は、あなたはバチカン宮殿の家族であって自由に出入りをして良い、というのです。実はその時、数ヶ月後に訪日をひかえていたローマ法王が、あなたを日本語の家庭教師として白羽の矢を立て、そのこの上なく重要で光栄な役目のために、あなたをお召しになったという出来事でした。「私にもこれと同じ事が起こった」というのはそういう意味だったのです。
N神父よ、今だから正直に言いますが、私はこの事実を告げられるまで、あなたの事を、もしかしてとんでもない詐欺師なのではないのかと、多少疑っていたのです。ああ、同じ日本人同士なのに、どうか御赦し下さい。しかし、一介の旅行者に、一般人には決して入る事のできない宮殿の奥まで、法王の居室までも見せてくれて、しかも写真も撮り放題だと言うのです。そして時折、あなたに対するちょっとした贈り物にはどのようなものが相応しいのかという事を、そしてそれが是非とも必要だという事を再三暗示(?)されたのでした。
法王がそのバルコニーから民衆の上にお出ましになるという宮殿の中の廊下で、箒を持った一人の寺男があなたに歩み寄り、自分の幼い子供の写真を見せた時の事を、あなたは覚えていらっしゃるでしょうか。彼は「パーデレ、パーデレ」と言ってあなたを見上げ十字を切っていましたが、あなたは笑顔で、しかし彼の解らない日本語で「何てヒネた顔のガキなんだ!」と楽しそうにおっしゃったのです。何というかまだ若かった私は目の眩むような想いをいたしましたし、だからあなたの事をどこか胡散臭い人だと思ったとしても無理からぬ事ではないでしょうか。
しかし、今ならば、いかに一人の人間の中に、この上なく偉大な精神と、類まれな卑小な特性とが同居しうるかと言う事実を、そしてあなたの信仰が人格上の欠点にもかかわらず、いや、それ故になおさら純粋で真実のものだという事を、自然に受け入れる事ができます。
日本に帰国後、私は「聖母の騎士」という雑誌の中に、ローマ法王に呼ばれた当日のあなたに関する記事を見つけました。それは同じ修道会のシスターの書いた記事です。それによると、バチカンから戻ったあなたは「青ざめて少年のように震え、礼拝堂に跪き朝まで祈りを捧げていた」と言うのです。その後、シスターがいかにあなたを励ましたかという記述が続きます。家柄も無く、瑕疵が無いとは言えない人格の事は、あなた自身が一番解っていたはずです。しかし法王はそんなあなたを家族としてお召しになったのです。私は少年のように震えていたあなたを信じます。そして「人生にはどのような事も起こりうるのだ」と言ったときのあなたの純粋さを信じています。
ですからどうか察して下さい・・・私はただ、愛に対して無垢で純粋な一人の少女が、やがて「聖母」となったという奇跡について、私なりに考えてみたかっただけなのです。確かにこれは物語の序章に過ぎません。本当の事がここから始まるのです。
カトリックの教義では、マリア自身も「無原罪のお宿り」(ああ、何というカルト的なタームでしょう)によって、生殖によらず生まれて来た事になっているのですね。プラド美術館を訪ねた時、ムリリョの手馴れた「無原罪のお宿り」という絵の中で、まるで昇天するように見える美しい可愛いマリアを、私は見たのでした。対してプロテスタントでは、人間マリアを拝み崇めるなどもっての外と言う事になりますが、それでも故北森嘉蔵先生は、共通の子供を喪い、神と同じ「痛み」を持つにいたりたもうたマリアの事を、もっと真剣に特別に考えなければいけない、と述べておられます。
ジャン=リュック・ゴダールですら、かつて「幸いなるかなマリア」のローマ上映を回避しました。そこにバチカンがあったからです。
今回の撮影をしながらずっと気にかかっていたのは、何故か、もうずっとお会いしていないあなたの事でした。一応、言い訳をしておきたいと思った私の気持ちを理解していただければ幸いです。
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