文化・芸術

2010年10月16日 (土)

ギャラリー⑥<キッチュの館>シュールリアリズムの逆襲!

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これらの画像は全て合成ではなく、実際にある居酒屋の空間で、何年か前にロケをしたものである。元来この店のオーナーは自身が画家で、その作風はマグリットを彷彿とさせるシュールリアリズムの系譜だと記憶している。店は画伯のおカミさんが執り仕切っていたが、それも夫の画業を助けるためと聞いた事がある。いつの頃からか、仕事の後に時折たち寄って、焼酎を飲むようになった。もっとも味についての配慮を欠くその店の料理は、決して美味しいものではなかったが、何とも言えないキッチュな雰囲気が店内には充満していて、美術系の業界の人間や寺の坊さん達(谷中の寺町なので)、さらに役者の卵とか芸大の連中等がたむろしており、何となく楽しげであった。

わけても秀逸なのは前記のおカミさんであって、つげ義春の漫画に「~館女主人」とかいうタイトルで登場してもおかしくない不思議な人物なのだった。性格的には穏やかなお母さんタイプとも見えるのだが、しかしながら外見が異常で非凡である。雪だるま型の体型で、眼鏡(らしきもの)をかけており、ネクタイ(らしきもの)で首から割烹着を吊るし、多分スカート(らしきもの)をはいていて、何故かいつも頭にハンカチ(らしきもの)がくっついている、という出で立ちだった(給食のおばさんのように三角巾を被っている訳ではなく、ただくっついている)。そしてめったに余計な事を喋らず、しかもホバークラフトのように移動する・・まあ考えようによってはシュールリアリズムを体現しているような稀有な人物なのだった。

さて、ここに通うようになってしばらく経った頃、一日、店を借り切ってモデルの撮影を行った。今回の作品群「キッチュの館」はその時のもの。ゴスロリの少女、ビクトリア朝時代のメイク、そして美しい人形。おカミさんはこの時の一連の撮影の上がりを見たがっていたが、その後しばらく店に行けず、月日が経ってしまった。ゴスロリや人形についての考察は別項に譲るとして話を進めると、ある時、最近おカミさんのご主人の病気がいよいよ深甚であって、気候の良い高原のアトリエに夫婦そろって移住し、旦那の病気療養に専心する事になった、ひいては店の方は閉めざるを得ない、という噂を耳にした。そこで、私は一大決心をして殆ど徹夜で、気に入った画像を選び、何度も調整し直して大判のプリントを作成した。そして早速、例の居酒屋へそれを届けに行ったのである。店舗の記憶のよすがとして田舎に持っていくとかしてもらえれば良いだろう位に思ったのだった。その画像がこれだった。
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おかみさんは一定の反応を示したが、しかし、「店の中で全身を撮った他のものはどうでした?」と私に聞いた。私は何か答えたはずだが記憶に無い。
結局、その店は居抜きで他人に譲られ、継続する事になったようだ。しかし、あのシュールなおかみさんのいない店には魅力を覚えず、その後、何年か忘れたままだった。

さて、先日偶然にその店の前を通りかかったおりに、仕事がたまたま非番だったので懐かしく思って中に入ってみた。新しい店主は「あたごおる物語」の「オクワ酒屋」のオヤジに似ており、これはこれで良い味を出しているようだった。店が続いている所をみると、そのやる気の無さそうな顔にもかかわらず、それなりに頑張っているのだろう。
ふとトイレに行こうとして、席を立った時、うす汚れた冷蔵庫の横腹に、私の製作したあの写真プリントが貼ってあるのを発見した。予期せぬ邂逅で、懐かしく感じた。
「これはどうしましたか」と聞くと、オヤジが言うには、何だか知らないが、捨てる荷物を整理していたら出てきて、ちょっと面白そうなのでそこに貼ったのだが・・・との事。

なんだ、引越しの忙しさにかまけて写真の事は忘れてしまったのだな、しょうが無いなあおカミさん、その時、私はそう思っただけだった。結局店に飾られる事になったし、まあ良かったじゃないか、と。しかし今回、例の画像をギャラリーに載せようかなと考えている時に、微かな違和感と共に一つの疑惑が浮上してきたのである。接客中はいつも穏やかそうに見えるおかみさんだが、実際の所どういう人なのか私は全く知らなかった。その事に今更ながら気づいたのである。

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しかしあの店内のキッチュな装飾、あれはおかみさんが少しずつ買い集め、あるいは拾ってきて飾ったものだという。あそこには何があったろう。ハンス・ベルメールのような人形や破壊された人体が表現するネクロフィリア、ジャンコクトーの阿片への耽溺、打ち捨てられた道具が醸し出す喪われた時間、種々の人面の持つ無秩序な象徴性、黄ばんで埃をかぶり曖昧によどんだ闇、そして全ては雑多で、統一性のある美意識をあざ笑うかのような混沌。これらが単なる演出だとは考えにくい。少なくとも、女主人の隠された人格や嗜好の一面が色濃く顕われていると推測する方が自然ではないか。
あの眼鏡(らしきもの)の奥で鈍く光っていた、岸田劉生の「麗子像」のような女主人の眼差しが、何やら怪しく思われてくるのである。シュールリアリズムを体現していた非凡な外見も非常に気になって来る。第一、普通の人はあんな格好をする勇気は無いはずである。
もしかすると、あの尋常でない佇まいのおかみさんは、かなりの芸術家であって、少なくともそのご主人の絶対の賛美者でもあって、その人格の根底には、容易に他人の存在を許さない神秘的なまでに強固な自我と、それに基づく狷介不抜のプライドを潜ませていたのではないのか。即ち、あの穏やかに見える表面の下には、相反するNo2の人格、キッチュの密林に息を潜める、虎の如き倨傲な人格が、隠されていたのではないか(少々穿ち過ぎかも知れないが)。何かそんな風に思われて来た。何しろ麗子像である。そういえば以前から、彼女の言葉のはしばしに、第二の人格の片鱗が現れていたと考えられなくもないのだ。


もしそうであれば、私の写真プリントは忘れられたのではなく、意図的に拒否された事になるのであろう。女主人が「店舗写真」や「店内の雑感」を期待したとすれば、その期待に沿っていない事は明らかだったし、さらに「隠された芸術家」「画伯の絶対的賛美者」にとっては、小癪に思われ、また許しがたい何かがこの写真には在るのかも知れなかった。意図的に廃棄されゴミ箱へドロップインされる運命のものだったのだ。

それにしてもキッチュな店内の中で薄汚い冷蔵庫に貼られたあの時の画像は、「オヤジ」の仕打ちによって冷蔵庫以上に薄汚れ、油がしたたり、見るも悲惨な状態となっていた。ところがしかし、まじまじと見ると、その店にはとても良く馴染んでいて、オリジナル以上の味を出しているのだった。時間と偶然というフィルターが絶妙にかかわって、今ではおかみさん好みの「死のベールに包まれた思い出」へと変じ、混沌たる店内でのインスタレーションを完成させていた。それを見てからは、私は作品に意図的にノイズを入れたりもするようになったのだが、まあ、これもシュールリアリズムの逆襲の賜物であると言えるのかも知れない・・・。

猖獗を極めた今年の猛暑が去り、肌寒い秋風が居酒屋のあるS坂を吹き下ろす季節が、また巡ってきた。
先代の女主人の行方は、誰も知らない。・・・(おいおい、だれか知ってるだろ)

Photos & Design: Tonno    Model:Midori / Gucci 
Hair & Make-up: Kozu


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2010年2月 1日 (月)

内なる殿堂  -胎内空間・カサバトリョ-

(1)プロローグ

東京シティー、夜のウォーターフロント。高層ビル群を背景にして高速道路のジャンクションが遠く眼下に見える。時折、飛び立つ旅客機の点滅するライトが夜空を横切っていく。一面が窓になったホテルの部屋の中で、私はこの現代文明の粋ともいうべき光景を眺めていた。高速道路の車のライトが列を成して流れていくので、画面にある一定の動きが与えられいつまでも見飽きる事がない。昔、人類がはじめて土器の上に幾何学文様を刻して以来、私達の合理的精神の旅が始まり、ようやくここまで来たのだ。それらの光は銀の粒をまぶしたように美しい。微かに低い街鳴りが間断なく聞こえている。人工的で魅力的なランドスケープだ。

だが、しばらくすると、どこか心の中で微かな声がするように思った。それは通奏低音のように止む事なく、次第に気になってきて、私を落ち着かなくさせた。今まではこんなことは無かったと思うのだが、耳を澄ませてみると、その声は「私はここに居る」と囁いているようだった。

一体、何に対して、何者に対峙して、そのように宣言しなければならないのか、皆目見当が付かなかったのだが、明らかにその声には深い孤独の影があった。A2_4


ふと、先日バルセロナで私が身をおいた空間は、こことは何と異なるのだろう、という考えが私の頭をよぎった。そこでは決定的に活動を止めてしまいたい位、護られ落ち着き、深く寛ぐ感覚があった。それはある意味で「胎内空間」と言っても良いのかもしれなかった。本来、「人の居るべき場所」というのはこういうものなのか、そう思った事を覚えている。今私が考えているのは、アントニオ・ガウディの幾つかの建築空間の事なのである。

今回は先日の小旅行で垣間見た、スペイン・モデルニスモ建築の二人の天才について、またガウディとサグラダファミリアとの関係について、現地で体感した事、また最近までに考えたことを書いてみたい。(長くなるかも知れません。時間のある方、お付き合い下さい)。

(2)ティトワン ―死・そして誕生以前―

盛夏の昼下がり、私はバルセロナのティトワン広場に佇んでいたのだった。ヨーロッパでは、大きな交差点はリングロードになっている。車を運転していて交差点に出ると、ドーナッツのようなリング状の道路に突き当たる。一定の方向に回って自分の行きたい方向に出るのである。ティトワンは非常に大きなリングロードで、その中が公園になっていた。ここからは四方が見渡せる。南に伸びる道路を辿ると、複数の王冠を戴いたビラセカ作の特徴的な凱旋門が見える。これは1888年に開催されたバルセロナ万博のモニュメントで、様式的にはネオゴシックだそうだが、実にスペイン的なデザインだ。ここを通るのが日課だった「彼」は、その日も、あの凱旋門を目にしていただろうか。目を転ずれば、公園の中心には大きなブロンズの群像が、高さ3メートルはあろうと言うコンクリートの台座に乗っている。そこから少し離れた一隅には黄色く塗装されたブランコがあって、女児が立ち乗りをし、その傍らでは若い母親が子供を見守っている。他に人影は見当たらず、ブランコを漕ぐ軋みと母子のスペイン語の会話が、周りの喧騒の中で切れ切れに聞こえてくる。

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昔は馬車も走り、路面電車がこの交差点を行き交っていたはずだが、今では軌道の上が舗装され、路面は高くなり、周囲の建物も変わってしまった。「当時」を思わせるのは同じ「ティトワン」という名を持つレストランの入った建物で、それには年経りた風格があるようだった。1926年6月7日、夕べのミサに出席するため、徒歩でサグラダファミリアを後にし、北からこのリングロードに出て、サン・ネリ教会に向かう西の大通りに入った所で、偉大なる建築家、アントニオ・ガウディは路面電車にはねられ、その「神の建築家」としての活動を止めたのだった。ここがその場所だった。

彼はその時「サグラダファミリア教会」の偉大な建築家だったが、あまりに浮浪者のような身なりだったため、瀕死だったにもかかわらず4台の車が彼を病院に運ぶ事を拒否したのだと言う。上着のボタンは全て無くなり、安全ピンで前を留めていた。幼少時からリューマチだった事もあって、晩年は通常の靴が穿けず、ボロ布を足にまいていた。だが、誰もガウディだとは気が付かなかったその「浮浪者」こそは、アッシジの聖者にも負けない程の修道僧そのものだったし、建築の才能は遙に勝っていた。彼は生涯独身であり、晩年は「神の家」の創造に全ての時間を捧げ、周囲からは「聖人」とみなされていた。

サグラダファミリアは、財政難から何度も建設中断の危機に見舞われたが、ガウディは自ら人々の布施を請い門戸の前に立った。自分は報酬を受け取らず、苦行僧さながらの清貧を通し、全てを聖堂につぎ込んできたのだ。ガウディが亡くなった時、未完の聖家族教会はそれ自体の持つ特異性と、その生みの親の特異性との故に、広く国外にも知られるカタルーニャの一大シンボルとなっていた。自分の葬式は簡素にという彼の遺志にもかかわらず、ガウディの葬儀は全市民の参列する盛大なものとなったが、それは人々の自由意志によるもので、かの国ではいまだかつてそのような出来事は無かったという。

アントニオ・ガウディというと、日本でもサグラダファミリアの建築家としてつとに有名だが、その特徴の現れた傑作は他にも多数ある。最も有名なのが「カサバトリョ」、「カサミラ」、そして「グエル公園」であろう。「グエル本邸」と「グエル別邸」、その他にも岡本太郎絶賛の「コロニアル・グエル教会」なども良く知られている。

私は特に「バトリョ邸」が好きだ。破砕タイルに覆われた外観も良いが、内装はさらに素晴らしい。それらはいずれも揺らぎ、くねり、流れ、自然の造詣が随所に現れる。恐竜の脊柱のような手すり、洞窟に開いたような窓、柔らかく滴り、あるいは渦巻く天井、水中を漂うような青い波紋の居間、そして随所に現れるカテナリー曲線。実際にその空間に身を置いてみると、それらは奇抜なのではなく、全く自然で深い親しみがあり、この上なく寛げる人間の場所なのだった(観光シーズンだったので遺憾ともしがたく人が多かったが)。

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冒頭の東京湾岸シーンが前頭葉的だとすれば、バトリョ邸空間は大脳辺縁系的というべきかも知れない。前者は、より高く、より遠くへ進めと、意識を鼓舞するのだが宇宙空間に対峙するような孤独を伴い、後者は人間意識の故郷であって、どこか懐かしく、落ち着いて安らかであり、いつでも帰っておいでと招いている。駆け出しの頃は、ゴシックを基盤にムデハル様式を取り入れた設計をしていたようだが(スペインはレコンキスタ以前のイスラムの影響が非常に強く、その文化はアランブラ宮殿に見られるようにキリスト教圏よりも、遥かに進んでいた。ムデハルはその特徴を吸収・融合した様式といわれる)、円熟期のガウディのデザインは明確に自然回帰であり、同時に実は人間の無意識に深くかかわっていたのだと私は思っている。それは彼のイメージが自然をそのまま写したものではなく、非合理で類のない象徴性と曖昧な無意識の形象とに満ち満ちているからである。前述した「胎内空間」という考えは、だからそれほど的外れではないだろうと思う。ガウディのこの無意識からのイメージは、自我が目覚める以前の、私達の集合無意識にも通じるもので、その何ほどかが、これらの空間には漂っている、少なくとも私にはそう感じられた。

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後日、バトリョ邸について調べている時、この建物の外観はドラゴンであり、サン・ジョルディ(西語表記)のドラゴン退治が、モチーフではないかという説を知った。提唱者は日本人の田中裕也氏で、地道にガウディ建築の実測を続けている建築家である。

D2 それによると屋根に乗る立体十字は剣の柄であって、その刃がドラゴンの体を貫いていると言うのだ。私には巨大ニンニクとしか見えなかったのだが、言われて見ればそういう感じもする。確かに屋根はドラゴンの鱗そのものだ。であるとすれば、館内はドラゴンの体内であって、私の「胎内空間」という体感印象もうなずける。しかし、ファッサードは、そうなると、なにやら獅子舞の獅子の顔に見えてきてしまうのだが・・・


                               
<つづく>

 

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2010年1月31日 (日)

続・内なる殿堂  - 二人の天才 -

(3)もう一人の天才、ドメネク・イ・モンタネールのこと

Sant_pau 産業革命で爆発的に拡張し、発展したバルセロナは、当時、大変な建築ラッシュで、雨後の竹の子の如く建造物が作られた。その中には素晴らしい個性的な建物が非常に多数あって、それらを手がけた才能のある建築家も枚挙に暇ない。ビラセカモンタネールカダファルク(モンタネールの弟子らしい)、そしてガウディの弟子というか助手というのか、ホアン・ルビオーとかジュジョールなど(全てを検分している訳ではありませんが)。まあ個性的なのか奇抜なのか、それとも一つの様式なのか、はたまた亜流なのか、とにかく驚くような建物が普通にあるのだ。屋上に卵が載ったロエベの本店は(トイレだけ借りました)モンタネール作、テーマパークのような「サンパウ」もモンタネールだがこれは精神病院。心が痒くなるような和傘のモチーフ満載のビラセカの傘屋のファッサード、カサバトリョの隣にあるお菓子の家のような「カサアマトリェル」はカダファルク、ピカソがその坩堝から巣立っていった伝説のレストラン「4匹の猫(クワトロガッツ)」がある重厚な建物もカダファルクの作だ。

これらの居並ぶ才能の中で、「もう一人の天才」と言われているドメネク・イ・モンタネールの事を話題にしたい。彼は、当時はガウディ以上に有名で活躍していた。色々調べてみると、ガウディは職人の子として生まれ、貧乏で非常に苦学したが、モンタネールは良い家の生まれであって、裕福で順風満帆の人生を歩んだようにみえる。モンタネールはガウディより3歳年長という事で、ほとんど同年輩なのだが、建築学校では教授としてガウディを指導した一時期もあった。また顔が広く政治力もあり、実際、国会議員にもなり、バルセロナの建築界に君臨したのだという。その肖像画を見ると、やや小柄そうだが立派であり、どこか狷介な印象もあるが、生き生きと語りかけてきそうでもある。

モンタネールの傑作は、上記の「クワトロガッツ」から程近く、歩いてもすぐのところにある。それが「カタルーニャ音楽堂」である。偉大な音楽家パブロ・カザルスのホ-ムグラウンドだったと聞いたが、これは今回、私が最も感動した建築となった。

「音楽堂」は花のモチーフに満ちており、何と言う明るい空間だったろうか。私はその中に足を踏み入れた途端に笑いが止まらなくなった。あまりに素晴らしかったのである。
階段を上がるとその両側の手すり部分がそもそも素晴らしい。支柱が黄色い透明な筒状のガラスであって中に螺旋状の細い金属が入っている。電気器具で使用するヒューズ管のような作りなのだが、このガラスの支柱が列をなして、階上へと誘うのである。おりしも朝の光に輝き非常に美しいのだが、安っぽくならないギリギリの、心をくすぐるような軽さがあって、こんなものは見た事がない。斬新で、綺麗で楽しい。(後日、バルセロナからやや郊外の町、レウスのペレマタ精神病院でモンタネールが同じ造形を試みている事を知った。映像で見る限り気持ちの良い美しい病院で、コンサート用の小ホールもあるのだから、私が患者だったら退院したくなくなるだろう。因みにレウスはガウディ出生の地と言われる)
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ホールに入ると、天井に大輪のヒマワリをモチーフとしたような「大シャンデリア」が、それはよく見るとステンドグラスなのだが、太陽のように明るく輝いている。ホール内部は装飾過多どころではなく、余すところなく全てが装飾なのだが、信じ難い事に実に美しく調和しており、気持ち良く、目がくらむような華やかさだ。普通だったら悪趣味に堕する所なのだが、何と言う品の良さだろう。モーツァルトの音楽のように、滞りわだかまる事が少しも無く、心が浮き立って仕方が無い。とにかくこんな建物は見た事がない。「やはり人生とは素晴らしいものではないか」、思わず直感してしまう。この空間を一言でいうならば「花のワルツ」。間違いなくモンタネールは天才だった。ここから見たら、ガウディの空間は穴倉のようで、暗く奇妙で閉ざされている。

B 現在ではガウディの評価が世界的に非常に高く、モンタネールはガウディになれなかった男とか、妬んでガウディの仕事の受注に干渉したとか言われる事があるようだ。だが、モンタネールの才能は素晴らしく、本物の天才であったと思うので、アーティストの端くれとしての私には、彼自身がガウディを恐れたり嫉妬する必要は全くなかったと感じられる。むしろ少なくとも一時期のモンタネールが、周りの反発にも拘わらず、ガウディの才能を擁護していたという記述が残っており、それは事実だと思う。晩年は引退して海に近い母の郷里であるカネットデマールに帰り、紋章学などの研究に余生を送った。奇しくもガウディと同じだけ生き、73歳で3年早く他界した。

建築家の意見としては、モンタネールの構造的な建築技術は非常に優れており、鉄材とレンガとセラミックを組み合わせた「カタルーニャ音楽堂」は音響が素晴らしいばかりか、百年余の星霜を奇跡のように乗り越えて来たのだという。修復の折に装飾の一部を外したところ、プロの演奏家達から音が変わり響きが悪くなったと苦情が寄せられた。その美しい装飾も全て音響を考慮して設計されていたのだ。一方、ガウディのカサミラは造形の犠牲となった部分もあり、施工の失敗もあるだろうが、建築時の補修部分が綻び剥離が進んでいるそうである。

ただ、この二人は決定的に違っている。モンタネールが非常に外向的であるのに対して、ガウディは優れて内向的だ。モンタネールは社交的で名声や社会的地位を求め、政治家にもなれたが、ガウディは人付き合いが苦手で、結婚しそこない、時に依怙地であって、訳のわからない頑固者と思われることもしばしばだった。人生の後半は、他人からどのように見られるかにすら無関心となった。晩年は浮浪者の身なりでいるのも平気だったが、それは価値観の基盤が心の内にしか無かったからである。モンタネールは富裕階層に生まれ、能力もあり活躍の場が早くから用意されたし、自分でもそれを勝ち取って行く術を知っていた。一方、貧しい職人の子であるガウディは、偶然エウセビオ・グエルという理解あるパトロンとめぐりあえて幸せだった。というかそれなくしては世渡りの下手な彼は、建築家として在り得なかったのである。他の芸術とは異なり、建築のためには莫大な費用が必要である。この財界の大物であったグエルの注文や口利で、多くの作品が生まれたのだ。成功した事業家でありながらガウディの才能を見抜き、40年にわたって徹底的に彼を擁護したグエルという人も、只者ではない。幸せな邂逅だった。

またモンタネールは、モデルニスモという建築史上の潮流の寵児であったが、円熟期以降のガウディは、もはやそこには位置づけられない。外れ過ぎているのだ。良く言えば、時代の制約を受けつつも超然とした独自性と普遍性とを持っていたように思う。だからこそガウディは時代を超えて、多くの人々に訴えてくるのに違いない。

しかし、なぜ彼は時代の様式から孤立し突出していたのか。確かにガウディは、既存の様式からではなく、自然から学んだと言われている。レオナルド・ダ・ヴィンチがそうであったように。樹木の形やモンセラの岩山。それはそうだろうと思う。自然回帰なのだ。しかし、それだけでは彼の作品のもつ圧倒的な特異性を説明できない。

ガウディの建築作品の独自性と普遍性とは、実は彼の個人的無意識(独自性)と集合的無意識(普遍性)とが、誰よりも強烈に作品に反映しているためと、私には思われるのだ。

様式は各個人が内部に持っており、
         無意識のうちに自然に湧いてくる
                    
―ガウディ―

ここに突出した二人の典型的な建築家を見るのである。外向型の天才と内向型の天才である。
モンタネールにとっては倣うべき様式は外にあって(通常様式とはそういうものだろう)驚くべき博学さで、それらを吸収(収集と分類)し、出る幕を心得てそれらを使用する事ができたのだろう。社会的な活動能力も無関係ではないだろうが、彼の作品はその時代の様式を雄弁に代表していると思う。モンタネールはその博学さによって獲得した様式を彫琢し、実に上品に、この上ない形の美しさと調和とをもって、現実の空間に表現する事ができた。この才能は並外れて余人に求め得ず、彼の独壇場であって、その美と調和の奇跡が、彼の作品に時代の様式を超えた、紛れも無い普遍性を刻印したのだ。

一方、アントニオ・ガウディという個人の心的エネルギーは内に向かう性質のものであり、彼の作り出す空間はその内なる無意識からのメッセージに導かれ、無意識から届けられる素材を用い、無意識の有する混沌の影を色濃く反映していると思われる。骨格は時代のネオゴシックだったとしても、これでは既成の建築様式に収まるはずもないのである。

前章までは、合理的意識と非合理の無意識との、各々の空間的表現の典型と、その人間に及ぼす心理的な作用につき、思うところを少々述べた。この章では、外向的な感覚機能の作り出す傑作がどういうものであるのかを、体験に基づいて顧みつつ、ガウディの作品がそれとはおよそ異質であることを確認したように思う。

モンタネールの最高傑作「カタルーニャ音楽堂」の素晴らしさは、いずれどこかで再考するとして、ここで再びガウディと「サグラダファミリア」のことに戻り、さらに核心に迫りたいと思う。

                                <つづく>

 

<番外・バルセロナ・レストラン事情>

スペインというと、ウサギとウナギとパエリャ(パエジャと言います)ですが、今回は残念ながらパエジャについては「これは!」というのにめぐり合えず、それが大変心残りです。一方、どこでも美味しいのが生ハム。それもハモンイベリコというイベリコ豚の生ハムで、それの熟成したやつ。脂が透明になり、トロトロで、大変風味がある。これは現地でないとなかなか食べられないようです。これを土地のヘレスやワインと一緒にやると、しみじみと幸福感が心を満たします。

さて、バルセロナでは雰囲気があって美味しそうな店が沢山ありましたが、財政難のため一部しかトライできませんでした。

文中にあるカダファルクの建築になるレストラン「4匹の猫(クワトロガッツ)」は現在もピカソの時代と同じ場所にあって、ホウレン草を練りこんだラビオリやクリームソースのカネロニが感動的に美味です。大変活気があって店のスタッフが火事場のように動き回っている。なかなか雰囲気がいいですよ。

ピカソは当時19歳、ここで仲間と議論し、描きまくってパリに出て行くのです。彼はガウディの設計したグエル邸の前にアトリエを構えていたくせに、ガウディ芸術には反発しました。たぶん青年ピカソの自負だったのでしょうね。
4gats
またそのガウディの建てた「カルベ邸」と言うのがあって、建物の1階がカルベの名を冠したレストランになっており、ちょっと高級だが大変美味しい。美しいガラス装飾のある暗いモデルニスモなガウディの空間です。テーブルの上だけの極端な斜光に、料理が幻想的に浮かび上がります。これは「陰影礼賛」か。料理はウサギも良かったし、注文した品はどれでも、食べれば笑顔になりましたから、多分何でも美味しいと思います。デザートのチョコレートがまた素晴らしく香り高い。このカカオの恵みはかつての植民地に拠るものでありましょう。良い豆が入って来るに違いない。皿やカップはガウディの破砕タイルのデザインだし、メニューの中にカタルーニャ風とかの記述もあって楽しく、お薦めです。それに、ここのマダムは美しく、実に気品に満ちています。ただし時間になるまではどんな事があっても店を開けない主義なので、開店前に行かないように。
Calbet
因みに、伝統的なバルセロナ郷土料理をと考え、茹でたカタツムリを食べに、「ロスカラコレス」に行った時のこと。そこの料理がとにかく塩辛いのです。店は大変風格があるのですが・・・偶然隣のテーブルにいた日本人の大学教授夫妻が、「ガイドブックを見て来てしまったが、塩辛いのであまり注文しない方が良いですよ」と忠告してくれました。しかし考えてみるとバルセロナは上記のように産業革命以後の労働者の街であって、まあ塩辛いのが正統なのです。カラコレスよ!お前は悪くない。たぶん・・・。
それで店の中を撮影させて貰いましたが、厨房の職人と思慮深いギャルソンがいい味出してますな。
Caracoles

全土でみると、スペインは世界の料理人の発祥の地、食の桃源郷と言ってもよいバスク地方を抱えています。が、今回は検分できませんでした。またバルセロナにはミシュランの三ツ星で「世界No1レストラン」の呼び声高い「エルブジ」がありますが、有名になりすぎたので日本から予約していかないと駄目でしょう。今回巡回した限り、もし貴方が「エンゲル係数100も辞さない派」であれば、その「食の探求スペイン編」は、マドリッドバルセロナ、やはり都市ですね。伝統を踏まえた上で、新しい味の創造が静かに進行しているようです。そして注目は赤丸急上昇のバレンシアだと思います。

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2010年1月22日 (金)

続々・内なる殿堂  -サグラダファミリア-

(4)内なる殿堂 ――サグラダファミリアの秘密――

Sa もちろんサグラダファミリアはカトリックの教会である限り信仰の問題が基盤にあるのだし、それについて私は多くを語る事ができないが、ガウディの超越性というものは直観できる。サグラダファミリアに出会った時の圧倒的な何か、地上のどこにも属さない、あたかも異星の砦のように見える存在由来。それは何か。前章でガウディの作品には彼の無意識が強く反映していると書いた。このサグラダファミリアについては、さらにもう一歩踏み込んでみたい。

誤解を避けずに言えば、サグラダファミリアという建築は、彼の心の内奥に形成された「内なる殿堂」ではないか。そして、そこに表現されているのは彼の自己像そのものではないか。つまりサグラダファミリアはその自己像が外化(意識下にあるイメージの外界への具体化)して結晶化しつつあった建造物ではないかと思うのである。であれば、次のように言い切る事もできるだろう。サグラダファミリアはガウディ自身であると。

ある意味で残念な事だが、私の心性はガウディに似ており(もちろんその天才は別)、内にイメージを見るタイプなので、彼の事はとても良く理解できるのである。もし私が若い建築家の卵で、モンタネールかガウディか、どちらかの弟子になるという事だったら、躊躇なくガウディを選ぶだろう。偉大かも知れないが、偏屈な変人・狂人と揶揄されたガウディだが、身内の人間に対しては全く違ったと思う。といっても結婚しなかった彼は晩年には、天涯の孤客となってしまったが、仲間の職人達に対しては、おそらく彼は非常に親身で二心なく、深い絆で結ばれており、彼等もガウディに対して絶対的な信頼と尊敬とを寄せていたのではないかと思う。そして私も彼の「内なる殿堂」を形とするための手伝いをしたいと心から願ったはずだ。

私は学生の時、次のような夢をみた。

夜だった。とある茫漠たる広場のような空間を囲む、長い大きな回廊に私はいる。その回廊には吊り燈籠というのか、多くの雪洞のような灯りが連なって滲むような淡い光を投げかけ、私の行く道が夜の闇に浮かび上がっている。心安らぐ懐かしい気持ち、どこか故郷に帰って来たような意識があった。私はその回廊を歩いて行き、やがて楼閣のある大きな門にでた。そして当然のように、しかし厳粛な気持ちで、秘密の奥の中庭に入っていった。立ち止まりよく目を凝らしてみると、その奥庭の中央に非常に大きな何かがあって視界をふさいでいるのが判った。それはどうやら巨大な塔で、異常な量感をもって漆黒の闇を背景にそびえており、それを見上げた私は強い畏怖の念に打たれた。それはどこか日本の城の天守閣に似ており、何とも言えない威容だった。だが次の瞬間に私は愕然とした。その巨大な塔は何と中ほどより上の部分が、空中に浮いているのだった。明らかに未完成で、建設途中であり、空中楼閣そのものだった。恐怖に近い何かが私の胸に押し寄せ、すっかり驚いて目が覚めた。

以後もこの種の夢は何度か現れ、そのつど、建物は成長し、あるいは変容して行った。その後C..ユングの心理学に触れた時、おそらくこの夢は建物の配置などが、無意識の中に配された心像のトポスであって、塔の変容は自己像とその生成を象徴するものであろうと考えるにいたった。今にして思えば、もし自己の象徴が空中楼閣だとすれば、非常に危機的な状況だったと思うのだが。

後日、この中庭と言うか、広場を囲む夢の回廊と、そっくりの建造物を現実に見た。それは何と京都の平安神宮で、門をくぐって広場に入ると、とても懐かしい崇高なデジャヴを感じた。まあこういう所が、私の意識・無意識が地域の文化に影響を受け、限定されている所以だが、夢の中の回廊はもっと立派で、規模が大きく神秘的であったとは思うのだ。さらに社殿の奥にあった秘密の庭と黒い巨塔に関しては、未だにそれに似た建造物と出会っていない。


Sb 私がサグラダファミリアを目の当たりにした時、初めてこの夢を見たのと同じような種類の情動を覚えたのだった。以前から写真で見知ってはいたのだが、実際に見ると臨場感があって五感で感じるものがある。勿論、構造上の強度計算は合理的になされているのだろうが、何か非合理な、計算された意識の産物ではない形態、すなわち無意識から来て無意識に訴える象徴的な形態や、混沌として意味の影に満ちた洞窟の気配があたりに漂っていたのだ。この建造物に没入したガウディの気持ちが手に取るように解った。「ああ見事だ、これは内なる殿堂だ・・・」

自然にそんな言葉が私の口を衝いて出ていた。そしてこれが今回のガウディ小論考のタイトルとなったのである。

アントニオ・ガウディがサグラダファミリアの造営を任されたのは、かなりの偶然からだったようだ。まず前任者のビリャールが、折からの財政難で施主側から素材の変更を迫られ、そのために臍を曲げ、匙を投げた。費用のかかる石造から安いレンガへの変更を施主に助言した副主任のマルトレールは、自分がしゃしゃり出るのに気が引けて、考えた末、かつて自分が助手として使い、ビリャールも指導したことのあるまだ無名のガウディ青年に、お鉢を回したという事らしい。ガウディは31歳だった。ビリャールの設計図を見ると、「聖家族教会」は実にありふれたネオゴシックの退屈なデザインの小さな教会だった。ビリャールが臍を曲げなければ、今日我々が目にするような驚くべきサグラダファミリアは存在しなかった訳だ。

もっともガウディにしても、初めから今日最終形として知られるサグラダファミリアの構想があった訳ではない。はじめはビリャールの計画を受け継いだが、本気になるにつれ、それを廃棄し、自分で設計をし始めた。彼はデッサンと模型とでイメージを形にしていき、実際の三次元の造形から受ける感覚を再びイメージにフィードバックしていったのであろう。しかし、そのデッサンは何度も書き換えられ、実に40年余にわたって、死の直前まで変容し続けた。つまりサグラダファミリアには設計図が無かったのだ。サグラダファミリアの原型はガウディの心の内にあり、彼の個性化と共に成長してきたのである。

その間に、彼は餓死しそうな心身の衰弱の危機を経験し、カトリックの信仰を得た。(普通に幼児洗礼を受けてはいたが、若いときのガウディは無神論者だったふしがある)。何を思ったか自ら断食してあわや即身成仏になりかかったらしい。大きな心的ストレスに見舞われた時、外向型の人はヒステリーに陥る。それは何らかの形で無意識的に外界に訴える心身症で、声が出なくなる、目が見えなくなる、動けなくなる、など症状は多様であるが、いずれも外界への発信であることに変わりはない。しかし、内向型の人はこの場合ひたすら精神が消耗するので、外から見ていて判断できなくとも心のエネルギーが燃え尽きてしまい、内面が生ける屍さながらといった場合もあるし、これが動けない状態になると心ばかりか身体も完全に憔悴してしまう。ガウディは精神的に相当衰弱していたのであろう。この時期、死の危機に瀕したと言われている。彼を救ったのは尊敬するトーラス神父の次の言葉だった。「人生は、はかなく、すぐに過ぎ去ってしまう。だから人間は自分の意思ではなく、神によって生命を絶たなければならない。特にあなたの場合はそうしなければならない理由がある。この聖堂は神の望みにより、キリスト教徒を精神的に養うために着工されたのであり、あなたはこの聖堂を完成させるという現世での使命を受けているのだから」と。(この言葉、鳥居徳敏氏の著書より)

彼は再び起き上がり、そのとき新生ガウディが誕生したのである。自己の使命を自覚してからは、次第に深い神学的教義を思索するようにもなっただろうし、以後、彼の建築物における作風が変わったように思える。サグラダファミリアに関しては、この時点から、今日残されているような一応の完成形のイメージが姿を現すまで、さらに30年以上が必要だった。そして後半の10年間は他の仕事は一切請けず、サグラダファミリアの建設にのみ、全生活を捧げ、文字通り「神の建築家」となっていくのである。

Photo_3彼の最終プランでは、サグラダファミリアは完成すると次のようになる。正面に「栄光の門」、向かって右側面、太陽の昇る側に「生誕の門」、陽の没する方角の左側面には「受難の門」が設けられる。それぞれの門の上には4本ずつ、計12本の塔が屹立し、これは12使徒を顕彰する。その内側に4本のさらに高い塔、これは4人のエヴァンゲリスト(福音史家:マタイ、ルカ、マルコ、そしてヨハネ)を象徴する。中心には一際高く太いイエスの塔、その少し後ろにはマリアの塔が立つ。マリアの塔は使徒の塔よりは高く、イエスの塔に寄り添っている。即ち、全部で18本の塔が建ち、3つの門ができる予定だ。現在までに、門が2つ、使徒の塔が8本できている。現在完成している二つの門のうちの一つ、「生誕の門」は、すべてガウディのプランによるのだが、ファッサードは腐りかけた巨神兵の肉のしたたるような鍾乳洞で、あからさまに深い無意識との関わりを連想させる。実に見事だがあまりに混沌としているので目を凝らさないと彫像達が見えてこないほど。

内陣は側廊から天井を支える柱が林立するが、「森の木々から木漏れ日が降るように」というのが、ガウディの計画である。そこにステンドグラスが美しい光を投げかけるのであろう。これは大変ユニークなプランだと思う。私の感想では巨大セロリが林立しているようにみえるのだが陰気でなく楽しい。

Sd そして、完成の暁には使徒を表す塔の先端、その頂華の指輪穴からサーチライトがイエスの塔とバルセロナの街を照らし、イエスの塔からは中空へ光が、また塔の内部には、音階をもつ鐘(カリヨン)とパイプオルガンが仕掛けられ、光と音の競演が定時毎にくりひろげられる予定なのである。常に神を顧み、聖家族に対する贖罪の気持ちを思い起こす警鐘として、バルセロナの街全体へ響き渡るように。(実に驚くべき建物です!)。

このように複数の塔がイエスや使徒に捧げられて、結果、塔そのものが擬人化されている教会というのは珍しいというか、他には皆無ではないかと思う。この試みは、一時期、同時進行していたモロッコのタンジールに立てる会堂の計画で、すでにガウディは着想していた。この計画は彼自身、傑作と自負していたらしいが、結局、施主団体の資金不足のため実現しなかった。パラボラ型の尖塔が林立し、それぞれがイエス、福音史家、十二使徒をあらわしていた。その真上からの平面図を見ると全体は正方形に円の組み合わさった上下左右対称のもので、まさに胎蔵曼荼羅さながらの図となっている。サグラダファミリアでは、これに聖母マリアの塔が加わった事になる。

しかし、一つ疑問があるのだが、これは聖家族教会であって、聖家族とはヨセフマリアイエスなのである。イエスの養い親であるヨセフはスペイン語ではホセというが、その名をホセ・マリア・ボカベーリャという人がこの教会の創設者・発案者なのである。かれは出版業を営み、ローマ教会の権威の低下と世の宗教心の希薄化を憂い、「サンホセ協会」を主宰した。そして聖ヨセフを家長とする聖家族のための教会を作ろうと決心したのだ。それが正式名称「聖家族のための贖罪教会」、即ちサグラダファミリアなのである。1882319日、聖ヨセフの日に礎石が置かれ、建設は始まった。

イエスとマリアと福音史家、十二使徒、各々に捧げるタワーがそびえるとして、ヨセフはどこにいるのだろうか。肝心のヨセフの塔が無いのである。イエスとマリアの塔の基壇となる内陣そのものがヨセフを表すとでも言うのだろうか。この全体像はサグラダファミリアとしては相応しくない。家族の像が見えないのである。ヨセフがいないのならば、いっそうの事、マリアの塔を取り去るか、これを聖母ではなくマグダラのマリアの塔とすれば筋が通るのだろうが、今のままでは理屈に合わない全体像と言わざるを得ない。

そして現在姿を現している使徒の塔、それは虫食いだらけでゴツゴツしており、まるで巨大な蟻塚のようだ。もしも日本の住宅街に出現したら、地域住民から訴訟をおこされかねないほど原始的で野蛮な感じもする(イエスの塔はどういう事になるのだろう)。実際、建築家のル・コルビュジエは、かつてこれを見て「バルセロナの恥」と言ったのである。意識的な洗練とは対極にあるこの力強さは、一体どこから来たのだろうか。そしてその頂華の個性的で何と立派な事。しかし、これは使徒の担うべき清貧と謙譲の徳を表現するようには見えず、少々くせ者の王侯貴族のように威風堂々としていて、むしろガウディの内面の矜持を示してはいないだろうか。

Sc 擬人化された建造物の要素がその役割や枠を超えて何かを顕している。ファルロス型の巨大な太い塔が、その中心に屹立する事で完成するこの教会の全体像は、むしろ極言すれば、ガウディの深い無意識から浮かび上がってきた「自己とアニマとその他の元型との競演」と考えた方が、妙に腑に落ちる布陣だと思うのである。(ここで言う自己とは私の中心というほどの意味)

世に、外化した「内なる殿堂」が幾つか知られている。郵便配達夫シュバルの理想宮、豪州サトウキビ長者のパロネラパーク、かつて香港島に花開いた秘密のタイガーバウムガーデン、ボマルツォの「聖なる森」、イタリアの数々のグロッタ。多くは無意識界がそうであるように、奇怪であったりキッチュであったりするのだが、無残であったり痛快なものもある。マイケルジャクソンのネバーランドや狂王ルードヴィッヒ二世のノイシュヴァンシュタイン城もここに挙げられるだろうか(書割建築というコンセプトであれば、各種テーマパークや映画村もここに入るだろうが、外的なテーマや使用目的があり、組織的に設計・施工され運営されるものはここにエントリーする資格はない)。必要な機能なり、前提となるテーマがなく、箱庭が発展したような空間、必要性を離れて個人的で止むに止まれぬモチベーションから成る建造物は、大抵は皆どこか偏頗であり「内なる殿堂」の匂いがする。

私たちの意識は氷山の一角であり、水面下に深く豊かな無意識がある。その世界は静的なものではなく、発展し、流動している。私たちの行動は気づかぬうちにその影響を受け、ある時には非合理で普段なら考えもしない決断をしてしまう。無意識の内容は夢に現れ、あるいは意識レベルが低下した折にふいにその片鱗を見せる。忙しさに取り紛れてしまった事々、防衛的忘却によって封印された劣等感や都合の悪い事、忘れ去られた理想の自分や今では遠くなった美しい光景、これらも潜在意識の内容となるが、こういうのは無意識の中でも比較的表層の個人的のものだ。深い層には多くの人々に共通する無意識があり、その要素としての幾つかの元型がある。良く生きるための知恵もそこにあるのだという。それらの中に「自己」という元型とそれを取り巻く小宇宙がある。

私が考えるに、個人的な無意識をより多く巻き込むほど「内なる殿堂」は何かしら奇矯グロテスクになる。内向的な人は特に、他人からの見栄えに無頓着になりがちで、劣等なコンプレックスが無防備に顕れるのだろう。もし、その外化した「殿堂」が人々にいわく言いがたい感動を与えるとすれば、技術や造形力の優劣は別として、そこに深層にある集合的無意識の何らかの要素が多かれ少なかれ立ち現われているのだと思う。

しかし、その「内なる殿堂」を外化する作業というのは、ユング心理学によれば、私たちの人生にとって、少なくともあるタイプの人達にとって、決定的に重大な意味を持つという事だ。C..ユングもボーリンゲンの地に、塔のあるユニークな館を自らの手で建てたのだった。そして、それは自分自身の個性化の過程で是非とも必要な作業だったと彼は述べている。

Se こう見てくるとサグラダファミリアは非常に特別な建築物だという事がわかる。前述したように、建設はビリャールの後を受けて二代目の建築家に委託されて始まったが、途中からは設計のみならず施工の実質的主体が、資金調達の点でもガウディ個人に移り、彼の自由な創造に掣肘を加える圧力がなくなった。従ってこの建物には実際のところ納期も設計図もなく、建築家の個性化に応じて全体像や空間イメージは時間をかけて自由に発展生成していった。ここに彼は「内なる殿堂」を外化していったが、他の「殿堂」たちと違っていたのは、サグラダファミリアは個人の慰みに供する密かな芸術作品ではなく、まして趣味の洞窟ランドでもない。それは社会的・宗教的な役割を持った「神の家」としての教会であった。またサグラダファミリアの建設は、ガウディの晩年には、カタルーニャの地で社会的な出来事となっており、民衆による神の家の復興とカタルーニャ民族主義との象徴になっていた。晩年の彼は、それら神と人々から課された使命を深く自覚した。

サグラダファミリアは、だから、内向タイプの天才的建築家が、自己像を含む「内なる殿堂」の投影を、第一級の社会的建造物として成就しつつあった実に稀な例だったのではないだろうか。そしてその出来事は、彼が一種の宗教的祈りの下に、自分自身を突き詰め個性化してゆく過程で起こったと言えるのではないだろうか。

()サグラダファミリアの危機

今回のスペイン小旅行では、私の無知故にコロニアルグエル教会への訪問をカットしてしまった。今となっては悔やまれる。その教会はグエルの死によって未完となったが、地下礼拝堂は傑作であり、図版を見る限りでは、未完の完成とも言うべき態を成している。

それではガウディの死によって成長が止まったサグラダファミリアの場合はどうであろう。サグラダファミリアはガウディ自身であり彼の作品に他ならないのだから、例えばバッハの「フーガの技法」がそうであるように、本当は中断したまま置いておくべきものだと思う(地下礼拝堂は使えるのだし)。しかし、残念ながらこれは公の役割をもつ教会であって、故人の遺志も子々孫々の代に完成を託したのであってみれば、やはりガウディのプランに従って建設を続けるのが正しいのであろう。造り続けるのがサグラダファミリアだという考えすらあるのだから。

当初、200年とも300年とも言われた工期であるが(現在までに100年余が経った)、近年の観光による莫大な収入と、最新式の建設機械の投入、80年代より石に替わって鉄筋コンクリートを使用するようになるなど、諸条件の改善()により、工期は大幅に短縮されたようだ。何とこの後20年程で完成の見込みという。そうなると完成はこの眼で見届けたいものだが、速成というのはどうだろうか。重厚な石積みでコツコツと、しかも超迅速にはできないものか。現在のコンクリート造作の部分は、木に竹を接いだ感じは否めないし、全体も何かテーマパークの張りぼての建物に近づいて来ている気がする。かなり心配である。

さらに深刻(と私は思うのだが)な問題がある。その問題は「受難の門」に既に顕れている。ガウディが路面電車にはねられた時、ポケットの中には、携帯版の聖書とナッツ(彼の昼の食事)と受難の門の細密な完成構想スケッチが入っていたという。今日、受難の門は完成しているのだが、担当彫刻家は全くガウディの意匠を変えてしまったのだ。誕生の門の彫像の一部を担当した日本人彫刻家、外尾悦郎氏は受難の門の作成時からそれを批判してきたし、今でもその事は過ちであったと述べている。私も同じ意見だ。受難の門の彫刻群は、インスタレーションとして見ればとても出来の良いものだと思う。そもそも単純な幾何学面を持つ彫像達によって、大きな悲しみが静かに表現されている。空間が整理され単純化されたために、深い感情が象徴的に昇華されて(この方向はガウディの意向に沿っているが)、いくばくかの空しさと共に形而上的な思索を誘うようでもある。しかしあまりにも彫像達はガウディの意図とは異なっており、「生誕の門」とも平仄を欠いている。これはもう一度やり直し、現在の彫刻群は別の場所にでも展示して貰いたいと願うのである。
今後もサグラダファミリアには種々のアーティストがやってきて、それぞれの個性で自分の好きなように仕事をしていくのだろうか。だとすれば、もはやこの教会はガウディのものでは無くなり、やがて複数の自己満足の落書きで満たされた巨大な寄せ書き帳と化して行くしかないのであろう。これをサグラダファミリアの危機と言わずして何としようか。

好き勝手に書いてきたが、もとより私は建築の専門家ではないし、つい先日まで、ガウディについては殆ど予備知識も無かったのである。むしろ今回スペインを訪問したのは、宮廷画家ベラスケスと彼の生涯とに興味を持っていたからで、まずマドリッドのプラド美術館を訪ねたい、というのが主な動機だった(それはまた別項で)。ガウディについては、帰国後、冒頭に書いたような事を感じる事があって、気になって多少調べ始めた訳である。といっても何冊かの本を読んだという程度。だから、今回のガウディとサグラダファミリアについての感想の根底にあるものは、すべて現地での私の直観であり、専門家からすれば的外れで噴飯物だと言われても仕方ないのかも知れない。

しかし・・・それでも「私は知っている」のである。ガウディが何を作ろうとしたのかを。

            完

(お付き合い有難うございました。長くなるため文中の幾つかのユング心理学の用語は解説無しで使用しました。悪しからず。なお「内なる殿堂」は私の造語であり心理学用語ではありません。)

Photo_4 補遺:「ティトワン」で出てきた、広場中央の集合の彫像ですが、これは実はモンタネールの発案により作成され、ガウディが土台の石造部分を造形したものです。バルトロメというカタルーニャの医学博士の銅像です。バルセロナの市長も務めました。しかし、復元されてこの広場に移築されたのは比較的最近の事で、内戦で破壊された時は別の場所にあったそうです。モンタネールとガウディの浅からぬ縁を感じます。そしてガウディが瀕死の打撃を受けた事故現場に置かれた医学博士の石像というのも・・・因縁を感じます。

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2009年9月12日 (土)

ツインイメージは山羊と6ペンス! 何か手ごわいぞ!

以前スタッフブログで、あえかで捉えどころが無いのだが、したたかな本能を持つように感じるツインの少女達を「何故かマリー・ローランサンが・・」と表現した事があった。このツインのイメージ、即ち二重人物像には、実は隠れたメッセージがあるかも知れず、ここでもう一度「ツインの小鹿」を別の角度から取り上げてみようと思う。

Photo

マリーローランサンに「接吻」という美しい作品があって、非常に良く似た二人の少女達が描かれている。顔を寄せ合う双子の姉妹のようだ。もっとも、ローランサンの描く少女達、女性達は往々にしてどれもよく似ているので、区別の付かない事が多い。少女達はたいてい羊のようで、ローランサン自身は、山羊に似た顔で自分の絵に登場する。残っている彼女の写真を見ると、実際、山羊系である。この「接吻」の絵柄が私の頭にあって、その連想から、この画像に対して「何故かマリーローランサンが・・・」という表現が出てきたようである。

それはともあれ、二重人物像に関しては、田中英道氏が、レオナルド・ダビンチについて、世界的に評価される優れた研究を行っている。氏は二重人物像をダブルイメージと呼んでいるが、美術の世界では普通ダブルイメージと言うと、「だまし絵」のように、同一素材が、視点を変える事によって、異なるイメージに変化するような場合を言う事が多いので、ここでは二重人物像を「ツインイメージ」と呼ぶ事にする。

田中氏によれば、ツインイメージの人物がレオナルドの作品に多く登場するのだが、それは端的に同性愛を象徴しているというのである。当然レオナルドはそれ系だったが、そういった観点で彼の作品を見直してみると、確かにツインイメージとしか言いようの無い人物像が、数多く見出せる(田中氏は「ブノワの聖母」におけるイエスとマリアすらもツインイメージだと看做しているのだが、これはどうだろうか)。

エロスは、かつて一心同体であった片割れを、追い求めずにはいられないという気持ちである。これはプラトーンの「饗宴」に由来する観念で、本来、完全であったものが、神によって二つに分けられ、互いに失われたベターハーフを探し求める事になったと言うのだ(ここでは同性同士の組み合わせがより完全だと思われた)。本来一つであった良く似た者同士が、再び完全になる事を憧れ、そのための果てしない探索行というロマンチックなエロスの試練を課される事になった。

ルネッサンスのこの当時、メディチ家のサロンでは盛んにプラトニズムが論じられていたようだ(辻邦生の美しく懐かしい小説、「春の戴冠」の世界!ですな)。だからプラトーンにおけるエロスの観念は周知のものだったと思う。

ただルネサンスのプラトニズムからは遠く離れた現代で、ツインイメージの象徴が、どれほど現代人の意識・無意識の中で生きているのかは分からない。しかしそれでも、同性のよく似た者同士の美的に呼応する姿は、どこか相寄る魂を予感させる。逆に言えば、当人達の外見はともあれ、その愛の形をツインイメージで表現するという事は充分考えられる。

ローランサンは人生を折り返した時点から、サッフォー的傾向を明らかにした。晩年には、長い間、愛人であり家政婦でもあったシュザンヌ・モローを自分の養子とし、自分の遺産を相続させたのである。そして、前出の美しいマリーの絵「接吻」は、ずっと英国のノーベル賞作家であるサマセット・モームの愛蔵品だった。周知のようにモームも同性愛者である(「人間の絆」におけるフィリップの痛ましい愛の遍歴!)

もしも、二人の少女達の間に、ある安定した愛の絆が潜在するのであれば、この画像を見た時の「何か手ごわそう」という男性の直観は、実はそんな所から由来するのかも知れない。

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2009年8月 6日 (木)

自分の顔を持つ女・・・

Photo_2古い写真の中で大切そうに顔を抱えている女性。プリミティブで個性的な風貌だが、どこか遠い絵のようで、時間に埋もれつつある肖像。

実は、この女性が抱えるのは自分の顔なのである。この顔は合成ではなく、前回、彼女が自分のタレント活動用の宣材写真として撮ったもので、その顔の部分を等倍に引き伸ばし、仮面に仕立て、そのマスクを大事そうに抱えて貰ったのである。

自分のなりたい顔、そうあらねばならない顔、実際にあるところの顔・・・。
本当の自分の顔とは、自分らしい顔とは何だろうか。日々、肖像写真を撮影していると、どうしても考えざるを得ないテーマである。

土門拳はその人らしい本来の顔を撮ろうと考え、わざと怒らせたり、わざと被写体の構えのタイミングを外して撮影したりした。例えば、画家の梅原龍三郎が、あまりに執拗な撮影に癇癪をおこし、籐椅子を投げつけたところ、「それです、もう一枚お願いします」と叫んだとか。
まあ話は面白いのだが、そういった「演出」をして撮影された「顔」が、その人の本来なのかと言うと、そこには疑問がある。それは楽屋裏には違いないが、それがその人の本質かと言うと考えてしまう。土門氏の肖像写真にしても全てがそうではなく、むしろ被写体が力を抜いた瞬間に、素直に撮影したものが多いと思う。

しかし土門先生は女優に嫌われた。丸いものをより丸く、低いものをより低く撮影したからだと言われている。私に言わせれば、そのまま撮っただけの事だろうと思うのだが。

学生の時、うちのスタジオでカメラマンのアシスタント修行をし、文芸春秋に就職した女性カメラマンがいる。先日、文筆家の林真理子先生に怒鳴られたそうである。
「あんたなんか嫌い、二度と来ないで」と。
随分嫌われたものだが、私のかつての弟子に失敗はあるまい。が、ただあるものをあるように撮ってしまった事が、落ち度と言えば言えるのかもしれない。

寄り道になるが、私は男性に対するよりも女性に対する方が、数倍神経を使ってファインダーを見ている。男性なら個性になる部分が、往々にして弱点になる場合があり、これはかなりキャリアのある女優さんやタレントさんでもそうなのである。申し訳ないが、「美の共犯者」としては「粗探し」が必要条件なのだ。そこを補正し、カバーし、あるいはエクセレントな個性(微妙な崩れがあるが故に美しいというような)に転換する作業には、全神経を集中する。これはヘアメイクも含めた内輪の共同作業であり、そこでの信頼関係が必須となる。
そこで私の場合、スタジオを離れて、はじめて、普通のと言うか、素直な目が万物に向けられる。 
だから、ふいに街角で、以前撮影したモデルさん達に偶然出会い(私からは決して気づかない)、肩をたたかれたりして挨拶されると、「おおっ、こんな凄い見知らぬ美人が・・」という具合で、「一般人」の私は思わずドギマギしてしまう。ファインダーを覗いて初めて誰だか思い出すというのも一種の職業病なのかもしれない。

話がずれてきたようだが、要するに社会的な活動をする人間は、そうである自分の顔だけでなく、そうであるべき「自分の顔」というものがあって、撮影する側もその所を斟酌して、被写体と共に工夫し、そこに近づく努力をするべきなのだと思う(勿論、報道やルポルタージュではこの限りではないが)ここであるべき「自分の顔」というのは社会に対する役割・態度と言って良く、ユング心理学ではそれをペルソナといっている。

ペルソナとは元々古代ギリシャの演劇で使用した仮面の事である。

母校の大学に演劇博物館というのがあって、そこにペルソナのレプリカが展示されているのを見た事がある。それは頭から役者が被るバケツのようなもの、その演ずる役割が遠くからでも明確に分かるようにするためのものであった。王様は王様のペルソナ、乞食は乞食のペルソナがある。古代の円形劇場では、遠くからでは声は通るが人物が判別しにくかったからである(その後、この役割仮面の意味がパーソンやパーソナリティーへと派生していく)。


例えばタレントとしての顔、政治家としての顔、学校の先生としての顔、会社員としての顔、同じポジションにおいても上司に対して、あるいは部下に対して、各々違う顔があるだろう。私たちは努力し、苦労しながら自分の役割たる顔を獲得していくのであって、自分が生きるべき社会に向けられたそのペルソナ・仮面こそが、人間の生き方を表す本当の面(オモテ)であり、本面と思われるものが、実は未開で未分化な素材に過ぎないのであろう。前者が人間の顔だとすれば、後者は獣の貌ではないのか。
坂部恵氏が「仮面と人格」で提起しているテーゼも、このような事だと思うのだが、もとより人間の本能は獣であっても、本質は獣ではない。間柄関係の中で生きる人間は、社会の中でペルソナ(仮面)によって自分を定位する動物なのだ。



彼女が抱える仕事用の顔は、社会的なインターフェースであり、それは大切なものなのである。その顔は、しかし、やがて年月に侵食されていく本体の肖像とは異なり、何か別の生き物のように、青白く影を曳いて、生きているようだ。

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2009年7月26日 (日)

雪原に降り立ったパンドラは・・・

パンドラは地中海に着水した可能性が高いのだが・・・この方がよりミステリアスではないか。

モデルのカオリさんは実は「ロカデリック・パンドラ」というバンドのヴォーカルでもあって、これは先日、CDジャケット用で撮影した時のもの。実際のCDの画像とは異なります。勿論、「パンドラ」は彼女のキャラクターだ。

Photo_2


パンドラは、人類初めての女性と言う事になっている。人類に火を与えたプロメテウスに怒ったゼウスが、人類懲罰ターミネーターとして、地上に送り込んだのである(意地悪な神だ)。パンドラとは全てを贈られた者の意。溢れる美と、チマチマしたちょっと役に立つ技術の色々(音楽の才能とか治療の技術とか)を与えられていた。プロメテウスはゼウスによって掛け値無しの無期刑に処せられ、おつとめ中で留守。双子の弟のエピメテウスには、ゼウスの賜物に対しては充分注意するよう言い置いていた。しかし、「仕出かした後で考える」という意味の名を冠せられたエピメテウスに後先は無い。美しいパンドラを見初めて早速、嫁に迎い入れてしまったのだった。何かウイルスに感染するパソコンみたいだ。

勿論、無邪気なパンドラに悪気はない。ただちょっと好奇心が強かったというか、まあ普通だと思うのだが・・・。

絶対に開けてはならないとされる箱(壷との説も)があった。しかも彼女の手の届く場所に。(これはゼウスに持たされたとも、エピメテウスの家に元々在ったとも言われている)。禁止されると却ってつい、と言う事でパンドラは箱の蓋を開けてしまう。尤も、キリストを裏切るイスカリオテのユダと同じで、これも予めプログラムされていた事だろう。

さあ大変、人類を不幸にするありとあらゆる災いが世の中に飛び出し、あわてて蓋を閉めたが時すでに遅く、最後に一つだけ、未来を見通してしまう能力が残ったそうだ。そこで先が見えれば絶望するしかない人間も、何とか夢と希望だけは捨てないでいられる、というお話(諸説ありますが私の解釈です)。

私には、パンドラは純真で、ちょっと好奇心があって、可愛い女性だという気がする。

カオリさんからは、ギリシャ神話の古代「パンドラ」イメージで、しかも可愛い女の子で、しかも動きのある感じで、しかも美しく、と言うハードルの高いリクエストが・・・。

しかしどうもイメージが湧かない。ギリシャ時代のヘアスタイルは、コテを使い、あるいは編んでアップにするもので、カオリさんの希望する動きのあるイメージにはなりにくいのだ。ディーバのヘアメイクスタッフもチームで検討し、あれこれ苦労したと思うのだが、結局ギリシャ時代のテイストを残しつつ流れる髪の形を考えてくれた。

絵画作品の数々を見ると、アトリビュートとして必ず壷か箱が描き込まれているが(時にはキリスト教のイヴになぞらえて蛇がいたりもする)、陳腐なので壷など要らない。実際には黒の布バックで、切り抜いて使えるように撮影した。彼女は脚が綺麗なので脚を出す衣装。さらに風を入れて動きを・・・ちょっと疾走するイメージだな。

この作品では、レタッチで背景を北極圏のオーロラと雪原にしてみた。人影のない夜の極北に密かに降臨した瞬間である。背景はカナダのイエローナイフで撮影したもので、実際この場所は氷点下40℃以下になったが、パンドラはターミネーターなので凍死したりしない。陶器質の肌を持つ輝く彫像のように、シュールな質感を出すために、またその無垢な心を表現するために、パンドラはモノクロにした。
この画像だとSF書籍の表紙にも良さそうだ。

蛇足だが、パンドラの浅はかさと研究熱心さとは科学者のものであろう。科学技術は人間の生活を豊かにもするし、大量殺戮兵器を作ってしまったりもする。遺伝情報工学、いわゆる生命科学と言われる分野でも、人間の倫理を踏み外し、その尊厳を蹂躙する惧れがないとは言えない。数々の理屈は有るとしても、その根底には科学者の「好奇心」が横たわっている。その意味で先端技術は常に「パンドラの箱」と成り得るのである。

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2009年5月25日 (月)

綺麗な写真。画家と写真家との関係は・・・

Lアルフォンス・ミュシアというボヘミアの画家がいる。パリにおいては、アールヌーボーの寵児といわれ、神話的なイメージの女性像と花の装飾が美しく(モチーフは必ずしも神話的ではないが)、私の好きな画家の一人だ。最近、その画家の画集を見ていて思わずぎょっとした事があった。若い聖母と少女の組み合わせによる「百合の聖母」という清らかな作品がある。その絵を描くための少女の参考写真が、同じページに載っていたのだ。ミュシアは写真を撮るのも好きだったと見えて、しばしばモデルを作品のために撮影している。その時の写真も彼の撮ったものだった。が、その少女があまりに醜くかったのである
衝撃的といってよい。少女は絵画作品と全く同じ衣装で、同じポーズをとっていたが、どこか人間離れしたものに見えた。つまり、いじけた離れザルのようで、人間の尊厳も、野生の美も、よいものが微塵も無い。ひね曲がり暗い眼をした惨めな獣がそこにいた。それで驚いてしまった訳だ。
「おおっ
! 何だこりゃ」と。

いや、気を落ち着けてよく見直してみれば、それほどひどくはないのかも知れなかった。あくまでも、ミュシアの崇高な(少なくとも清楚な)絵画作品と比べてという事で、その対比によって一瞬、そのように見えたに違いない。また、一般の人達が見れば、何のことはない、普通の写真に過ぎないのかも知れない。ただちょっと、頭でっかちで肩幅が狭く、猫背で、やる気なさそうなポーズで姿勢が悪く、「早く解放して欲しいんだけど」と言わんばかりの恨みがましい上目遣いの不満な表情があるだけで・・・むしろ子供らしい表情の顕れた微笑ましい写真に過ぎないのかも知れない。
ただ、前後の他のページにも、下敷き用のモデルの写真が載っていたのだが、その時は、やはり全てがおぞましく醜く見えたのである。

それにしてもその写真は、彼の描く作品とは何と隔たっている事か。写真に写った現実は何と貧しく、そこから彫琢されて生まれ出たイデアは何と高貴なことか。やはり創造の秘密というものがそこに横たわっているのだろうか。

「この貧しき地上に・・」というフレーズが頭に浮かんだ(私の場合は佐藤史生由来)

美しく崇高なものは、全て理性と計算の所産である―ボードレール

最近、何度かさる高名な画伯のために、モデルを撮影する事があった。画伯は繊細な感性を持った芸術家であって、躍動する美しいバレリーナや、どこか高貴な魅力を持った女性像は、画伯の独壇場と言ってよい。海外で非常に高く評価され、私も密かに尊敬している巨匠である。その巨匠の作品のための撮影なのである。
本職の絵画用モデルでない場合、何十分も動かないで同一のポーズをとり続ける事は不可能である。また作品のモデルがタレントであったりすれば、スケジュールの関係からもそんなに時間をとる事はできない。そこで写真が大いに役立つ。

上記のミュシアもそうだし、ドラクロア、ゴーギャン、ピカソしかり、クリムト、ロセッティしかり、まあ要するに殆どの画家が写真を利用している。また写真は一瞬を止める事ができる。ドガなども写真を用いる事により、動きのあるバレリーナやギャロップする馬の一瞬の形が描けた訳で、さらにジャコモ・バッラとかジェラール・デマシオという作家などは、写真における「ブレ・ボケ表現」を絵画に再現してもいる。

勿論、写真と絵画とでは制作の作法が異なるので、いくら感性の優れた画家であっても素晴しい写真が撮れる訳ではない(私が立派な絵画を描く事はさらに困難だ)。私の知る限り例外はバルテュスの少女達であって、またイサム・ノグチの造形写真は凄かったと土門拳が証言してもいる。

今回のテーマは、

「画家と写真家との関係」

        ―彼方の創造のために撮影すること―

はじめに、大きなディフューズした面でライティングを組み、無用なアクセントが付かないように、しかも自然な影が出来るようにした。これは巨匠の希望である。モデルは画伯が非常に気に入っている、若く美しい(月並みの形容詞だが)女性で、タレント活動もしている由。初めのテスト撮影で早くも巨匠のダメ出しがでた。「私は女性をこのようには見ていない。もっと下からのアングルで撮って欲しい」と。私は長身だったし、画伯は小柄だった。小柄なカメラマン、えてして女性カメラマンが立った人物を撮影するとき、よく鼻の穴がやけに強調されたり、屋外のロケ撮だと背景に電線ばかり写ってしまう事がままある。それは良い写真ではないし、殊に女性は上から見た方が可愛いと私は思っているので、彼等には撮影時に脚立を使うようアドバイスしている。
しかし巨匠にとっては、美しい臈たけた女性は、むしろ仰ぎ見る存在だった訳だ。
なるほどそれは理解できる。以後私は、モデルが立っても座っても画伯の視点から見る事を心がけて、少々辛い中腰の姿勢で撮影するようにした。


A今回の撮影では、衣装については希望があるが、ポーズについては特に巨匠の指示は無かった。ウォームアップを兼ねて、モデルに自由に動いて貰って撮影して行くと、やがて巨匠にインスピレーションがやってくる

「ううっ、もうっとこう、ぐっと煽って」

巨匠はインスピレーションがやってくると、興奮して何を言っているのか分からなくなる。
「もっと男を、こう
(力強い手振り有り)、ううっと!」

言語不明瞭だが、何となく雰囲気は伝わるので、ヘアメイクに言って、多少ワイルドに髪を直してもらったりする。

「もっと脚を見せて」、「今度はこれに着替えて」

と色々なシチュエーションで撮影していく。鏡を使ったり、帽子を取替えて・・・と。

いつしか私は通常の自分の撮影のように無意識にモデルを動かし、形を作っていたのだと思う。腕が細く見えるように、体が綺麗にバランスを保ち、自然に流れるポーズで、しかも美しい顔の輪郭と効果的な影が表れるよう、そして表情・・・。

背景の整理まで含めると、フォトグラファーがコントロールすべき要素は殆ど無限にあり、これはこれで大変な集中力が必要となる。しかし、撮影も佳境に入ると一種のランナーズハイの状態(これはおそらくだが、というのも私が走るのは20メートル以内という事になっているので)に入り、非常に心地よいリズムで撮り進める事ができる。
しかし、そこに大きな落とし穴が・・・存在した。

Photo この時、撮影した画像をモニターで確認した巨匠は一言、

「綺麗な写真だね!」

と珍しく言語明瞭に言ったのだが、その語調には明らかに巨匠が不満足であり、それは巨匠の求める画像ではないよ、という並々ならぬ強い意志が現れていた。ただ駄目と言うのではなく、真っ向から否定すべき何物かがそこにあるようだった。

絵画と写真との関係で広く膾炙している事柄の一つに、「絵画は足し算、写真は引き算」というのがある。真っ白なキャンバスに一から描いていく行為は、なるほど足し算であるし、写真の場合は、現実の中から不必要なもの、在るべきではないものを除き、省き、隠していく。これが引き算に当たる。見たいものだけを見るという、マスキング心理が人間にはある。そこで普段あまり気が付かないのだが、現実の環境というものは案外、猥雑なものなのだ。

とある美しいモデルが、とある場所に佇んでいるとして、絵画ならば彼女の背景に、美しい森や湖を容易に加える事が出来るだろう。彼女は木々を渡る風を頬に感じ、心地良さそうに見えるだろう。しかし実際には、首や頭を横切る邪魔な電線がある、匂いそうな汚れたゴミ箱があって路上にゴミが散乱している、興ざめな看板(美しい看板もあるが、時々「いぼ○」系も)がある訳で、ことに景色が狭いこの国の中では、いかに背景をぼかすか、いかに背景を切り取り隠すかという事に、人物カメラマンは常に腐心している。当然、風景作家はさらに腐心している。
現在はコンピューターで処理が出来るようになり、それはそれは楽になった。とりあえずの撮影が、かなり自由にできるようになったのだ。以前にはこの「引き算」に大変な労力を費やす事が珍しくなかったのである。

今となっては10年以上も前になるだろうか、朝まだきのベネチアでの事を思い出す。まだ暗いうちからホテルを抜け出した私は、懸命にサンマルコ広場を掃除していた。やがて明け初める朝の光と競争で、ゴミ拾いである。仕事で、未明のサンマルコ広場の広告写真を撮影する必要があったのと、もう一点は自分の作品のため、誰もいない広場にマスケラを置いて撮影したかったのである。中世ヨーロッパに黒死病といわれたペストが大流行し、人口の大半が罹患して死亡した。その折、ベネチアの医者達が遺体を運搬するために鼻の長いマスケラ(仮面)を付けた。死体に近づき過ぎないためである。

話を「絵画と写真」のことに戻そう。例えば、アーティストの中に理想のイメージがあるとして(もちろんそのイメージが制作の過程で形作られ、変容する場合も含めて)、絵画と写真とでは、前述したようにアプローチの仕方が正反対であるのかも知れない。そして、写真はやはり、決定的に現実に依存し、それに拘束されてもいる。また在るものを在るがまま撮っても、それは現実を写した単なる記録にすぎない。人物のポーズについても、何らかの緊張感があり、あるいは動きや流れがないとつまらない写真になってしまう。また画面に象徴性があり、あるいはストーリーを持ち、あるいは質感描写が非常に優れている、あるいは被写体の表情が見る者の心を強く動かす、そのような要素がない写真は、作品とはなり得ないだろう。

それに比して絵画では、何気ない普通のポーズ、ただ座っているだけのポーズでも、そのマチュールやタッチ、色遣いが生きているので、芸術作品と成り得るのであろう。

冒頭の作例『読書』について言えば、これはスタジオの中で帽子の衣装でただ撮ったもので、それをややパステル画風にアレンジしたものだ。素材感が出て、少々面白い。もちろんモデルの彼女は、醜いどころかたいそう美人だし、幼少よりクラシックバレエで鍛えた身体は、彼女に美しい姿勢を採らせてもいる。しかし、それでも元画像はつまらない記録写真だった。

最後に掲げる作例『遠雷』は、同じ画像の上に、さらにレタッチを加えている(タイトルはアンドリュー・ワイエスからの好意的?パクリです)


L遠い積乱雲から雷鳴が響いてくる。とても明るい午後だったのに、やがて涼風が立って少し肌寒く感じる瞬間。一雨来そうだ。彼女は少し不穏な気持ちで、変更せざるを得ない今日の予定の事を思い巡らす。しかし人生とはそんなもの・・・

となると、象徴性とストーリーとが生まれ、パステル風のタッチと相まって、少し面白そうな画像だ。

この実験で明らかなように、要するに想像力を働かせ作り変える余地のある写真こそ、画家にとっては望ましいものではないのか。普通、モデルは美しい訳ではなく、ポーズも完全な訳ではない。画家は描く過程で、それを完璧なプロポーションを持ち、意味深いポーズをまとうビーナスに生まれ変わらせる事ができる。あるいはこの世離れした天使や、場合によっては魔女にする事もできる。その創造の過程は、何という快感を伴う得がたい崇高な作業であることだろう(と私は思うのだが)。つまり創造主の仕事こそ、画家の本分に違いない。


「綺麗な写真」
はおそらく、それ自体に綻びがなく、完結してしまっているのであろう。であるとすれば、画家の想像力を固定し、あるいは拘束し、その創造主としての出番を封じてしまうクビキに他ならない。あの時の画伯は、瞬間にそう直観したのではなかったか。

突然の事で、当日の私には、筋道がよく呑み込めない出来事だったが、今ではそう考える事ができる。

ともあれ、この事がきっかけで、「画家と写真家との関係」、ひいては「絵画と写真との関係」について考える気になった訳である。
「綺麗な写真」については、つまり写真とは作法の反対の、彼方の創造のために撮影する事については、一応結論が出たと思う。これは画家と写真家との関係と言い換えても良い。だがそこに潜在する課題「絵画と写真との関係」そのものについては、さらに突き詰めていかねばならないだろう。

現在では、素材の写真を組み合わせるコラージュ技法は当然の事として、写真素材を改造し、PCで絵画作品を作っている作家も大勢いる。少なくともデジタルで撮影し、レタッチするのは、写真館やカメラマンにとって、今や普通の作業となっている。そうなると「絵画と写真との関係」はもはや以前ほど単純では無い。ますます錯綜してきているのである。
それでは写真の本質とは何か。

私の唱える「写真行為の二元性」、すなわち「表現と記録との関係」についての考察は、また別の機会に別の項で述べる予定である。

(お付き合い有難うございます、長くなってしまいましたが、写真論に入ると、べらぼうに長くなりそうなので、止めました)。

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2009年5月17日 (日)

「人形愛」の道を直くせよ!

A

奔放、憧憬、華やぎ、期待と虚無。人生の諸相を表現しているかに見えるこれらの瞳は何を見つめているのだろうか。

その昔、ピュグマリオンは生身の女では到底実現することのできない理想的な女性像を象牙で作った。彼が人形に優しく語りかけると彼女も嬉しそうに応えるように思われた。日ごと彼の心は彼女に寄り添い、やがてそれが生きて彼の愛を受け入れるよう願うようになった。この物語では、彼の願いはついに愛の神アフロディーテに聞き届けられるのだが、ピュグマリオニズムといえば爾来、何故か人形に対する偏愛を言うことになった。

以前、マネキン人形を制作している平和マネキンという会社の依頼を受けて、マネキン人形のカタログ撮影の仕事をしたことがあった。その時の事である。とある暑い日、窓の外には射るような夏の陽光が降っていた。川端にある工場の、冷房のない大きな倉庫で、3日に渡って撮影が行われた。

カタログの撮影は商品撮影とイメージ撮影とを平行して行う。イメージ撮影ではマネキンを人間達の生活空間に置いて、カタログを見るクライアントが感情移入しやすいように、さらに店舗を訪れた客達がマネキンに托した自己のあるべきイメージを喚起しうるように、撮影してゆこうという方針になった。つまり人形を人間生活のリアル空間に置いて、物語を作ろうというコンセプトだった。そして撮影の仕事は、そのマネキン達の産みの親である制作者が必ず立ち会って行われた。

作業を始めると、作者達は映像になった自分の作品が本物のようだといって喜んだ。実際、新世代のマネキンは実によくできていて、仕上げのメイクがまた素晴らしい。実物の人間と見紛うほど、いや実物の人間よりも遥かに美しい出来なのである。
しかし、彼女・彼等たちをリアル空間において、人間として取り扱おうとするときに、決まって微かな雑音が生じ、やがて違和感となって胸に滞る感じがして、撮影の間中、私はそれが気になった。言ってみれば人形は人形であって、嘘くさく、実写された現実は如何ともしがたく味気なく思えた。

ところが、絵コンテで予定した背景のいくつかが、撮影時に間に合わず、仕方なく、いわゆる書割で撮影を始めた時に、少なくとも私にとっては劇的な事が起こった。
マネキン人形は実際の人間をモデルに(工場のパーティションで区切られた一角がモデルのポーズのための部屋だった)、クレイの塑像から制作するのだが、といってもあまりにリアルで生々しいと、服よりも人形が主張してしまうか、服が美しく見えないという事態になる。そこで人形のプロポーションや顔貌は、忠実に人間をかたどったものではなく、いわば衣装のための理想形であると言える。その意味でピュグマリオンの作った人形に似ていたが、いずれにしても完全にアーティフィシャルな作品だった。

図らずも私の行ったことは、彼女たちをアーティフィシャルな空間に置いてみることだった。背景はリアルな景色ではなくスタジオの書割やプレーンバックで演出する。例えば女スナイパーが斜光に照らされ、背後に影を落とすレンガ塀も書割だったし、雨の日に美少女が吐息まじりに外を窺うガラス窓も、代用品のアクリル板をセットした。マーメイドの佇む海中にいたっては、青い布とバックライトで作った舞台装置とした。すると、面白いことに、そこに完結した彼等の世界が生じるのを私は見、彼等が水を得た魚のように自由に、実に生き生きと動き出し、楽しげに遊ぶのがわかったのだ。もはや彼等は製造番号を打たれて倉庫の什器に山積みにされた単なる物質ではなく、さらに翻って人間の玩物でも、分身でもなかった。こうでなくてはならなかったと、ある単純な事を私は理解し、その後、撮影は順調に運んだのだった。

ピュグマリオンは理想の女性像を追い求めた物語だったわけだが、彼の欲望は考えてみれば随分自分中心の自己愛的なものである。もしもピュグマリオニズム「人形愛」と言うのならば、ピュグマリオニズムは生きている人間の代替物としての、あるいはフェティッシュとしての人形への愛ではないはずである。穢れなく完結し、潰えず飽かずに夢見続ける彼等への、またその住むところの不壊の世界への、切なる憧憬であるべきだろう、とその時私は考えたのである。「人形愛」の物語であれば、ピュグマリオンの願いが叶う時、彼自らが人形となるべきだったのである。

つまりピュグマリオニズムを「人形愛」と翻案するのは間違いであって、欠点の無い、無害で、ご主人様にかしずく理想的な女性を夢見る「オタク的自己愛」と考えるべきで、これは現代のこの国では、かなりありふれた心性なのかも知れない(フィギュアニズムと命名しよう)。しばしばゲームのキャラクターに対しても、同様の感情移入が起こっているだろう。少なくない人口の自己愛者達が市民権を獲得しつつあるのかも知れない。
そこで興味深いのは、マネキン人形の偉大な製作者達である。しかし、彼等をどのように位置づけるべきかは、残念ながら留保せざるを得ない。肝胆相照らすお付き合いをする程、時間的余裕も無かった訳である。もともとは油絵やデザインを学んだ人たちで、意外なことに彫刻の専門家ではなく、はなから人形が作りたい人たちではなかったのだ。まあ、少なくとも彼等には「人形愛」を語る資格があるに違いない。撮影の間、常に人形に感情移入し、人形の側から現実を見ていたからである。

この時の経験を通じて人形に対する正しい偏愛の形を、私も少しマスターしたように思うのだった。だがしかし・・・何の事はない、要するに「リカちゃんハウス」が正しかったと、言えなくもないのである。

(写真小さくて見にくいかもしれませんね。人形のウイッグは全て、スタジオ☆ディーバのメイクスタッフがカット&セットしたものです。人毛ではないので特別な技術が必要なのです!)

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2009年5月13日 (水)

メイクアップ!(身体を超えるカラダ)

Dsc_4256wllc_4張り巡らされた罠の向こうに、メイクアップした女性が捕らえられている。射るような眼差しをもって、彼女は社会のしがらみに、あたかも挑んでいるように見える。

今回のテーマはメイクアップ

メイクアップはそもそも単に整えて作り上げるというに止まらず、人間の精神史においては、その根底に呪術的な意味を潜在させている。ボディーメイクを含め、人体に施した粉飾は、自分を霊に化体して強い者となるために、また翻って魔を除けるための意味を持っていたのだから。
例えば、リップスの赤(紅)は古来、魔を入れない、また同時に出さないという結界を表現したであろう。鳥居の赤と同様にである。現在でも、ある種の精神疾患の人たちの、口が異様に赤く強調されたメイクに、自己を理不尽な外界から防衛するのだという、呪術的な意味を読み取る事ができる。これは人間のアーキタイプでもあるので、そこには実に多くの人に共通する無意識を垣間見るのである。敢えて言うならば、それは、自分の有限な身体性を超えようとする、悲しき願いなのではなかったか。

現代の文明社会では、市場経済の原理に沿って流行が生み出され、メイクアップも遊び心に華やぎを添えている。透明感のあるファンデーションとハイライト、的確に入れられたシャドウ、上手にメイクされた女性の顔は、洗練されて美しい。
Yumiwel_3
だが多くの女性がメイクアップによって社会とのインターフェイスを獲得し、あるいは無防 備を脱して、武装できたと感じるのはどういうことだろう。私には単なる習慣の問題ではないように思えるのだ。冒頭で述べたように、メイクアップは元来、単純な性差の強調という事ではなかった。かつて顕著であったその原始の本質は、現代においても秘かに伏流し、時折にかつての片鱗を見せる。例えば、フォーマルな場において、リップスは赤を用いる事になっているのは何故だろう。赤は軍服の色、戦いの色、魔除けの色である。さらに顔の左右、パーツのバランスを人工的に整えて、ある種の均整美を装着していく。つまりメイクアップは、例えば男性が、夏の盛りでもビジネススーツに身を固め、ネクタイを締め、ペルソナによって自我を武装するのと同様に、女性が身を引き締めて、社会に臨む戦いの装束でもある。少なくともこの「勝負」顔の本質に対峙したときに、素顔こそ無防備で愛おしいと、少なくない男性が思うかも知れない。

もう一度、作品に立ち返ってみよう。
であれば、彼女を捕らえている蜘蛛の糸は、実は彼女自身の身体性そのものなのであり、それ以外のものではない。
人間にとっては限られた春秋の中で、それでも、あなたが本来の自分を越えて輝ける瞬間が必ずあるだろう。そして、その人生の重大な局面をクリアーするために、自分を超える力が必要と感じる瞬間が、必ずあるだろう。ただ祈るのも悪くないかも知れない。しかし、少なくとも、あなたの未来を開いてゆくアクティブな戦いにおいて、身体的にも精神的にも、メイクアップが有効な武器となり得る事は間違いあるまい。こう書いただけで、いくつかのシークェンスが私の脳裏にフラッシュバックしてくる。

太古から始まっている、自分の身体性を超えようという戦いの片鱗が、彼女の顔に刻印されて護符となり、彼女の挑戦が始まった。

Model: Yumi
Photo & Design:Tonno 
Hair & Make-up:Emi 

(現在、この画像はスタジオ☆ディーバのシンボルイコンとなっています)

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