アルフォンス・ミュシアというボヘミアの画家がいる。パリにおいては、アールヌーボーの寵児といわれ、神話的なイメージの女性像と花の装飾が美しく(モチーフは必ずしも神話的ではないが)、私の好きな画家の一人だ。最近、その画家の画集を見ていて思わずぎょっとした事があった。若い聖母と少女の組み合わせによる「百合の聖母」という清らかな作品がある。その絵を描くための少女の参考写真が、同じページに載っていたのだ。ミュシアは写真を撮るのも好きだったと見えて、しばしばモデルを作品のために撮影している。その時の写真も彼の撮ったものだった。が、その少女があまりに醜くかったのである。
衝撃的といってよい。少女は絵画作品と全く同じ衣装で、同じポーズをとっていたが、どこか人間離れしたものに見えた。つまり、いじけた離れザルのようで、人間の尊厳も、野生の美も、よいものが微塵も無い。ひね曲がり暗い眼をした惨めな獣がそこにいた。それで驚いてしまった訳だ。
「おおっ! 何だこりゃ」と。
いや、気を落ち着けてよく見直してみれば、それほどひどくはないのかも知れなかった。あくまでも、ミュシアの崇高な(少なくとも清楚な)絵画作品と比べてという事で、その対比によって一瞬、そのように見えたに違いない。また、一般の人達が見れば、何のことはない、普通の写真に過ぎないのかも知れない。ただちょっと、頭でっかちで肩幅が狭く、猫背で、やる気なさそうなポーズで姿勢が悪く、「早く解放して欲しいんだけど」と言わんばかりの恨みがましい上目遣いの不満な表情があるだけで・・・むしろ子供らしい表情の顕れた微笑ましい写真に過ぎないのかも知れない。
ただ、前後の他のページにも、下敷き用のモデルの写真が載っていたのだが、その時は、やはり全てがおぞましく醜く見えたのである。
それにしてもその写真は、彼の描く作品とは何と隔たっている事か。写真に写った現実は何と貧しく、そこから彫琢されて生まれ出たイデアは何と高貴なことか。やはり創造の秘密というものがそこに横たわっているのだろうか。
「この貧しき地上に・・」というフレーズが頭に浮かんだ(私の場合は佐藤史生由来)。
美しく崇高なものは、全て理性と計算の所産である―ボードレール
最近、何度かさる高名な画伯のために、モデルを撮影する事があった。画伯は繊細な感性を持った芸術家であって、躍動する美しいバレリーナや、どこか高貴な魅力を持った女性像は、画伯の独壇場と言ってよい。海外で非常に高く評価され、私も密かに尊敬している巨匠である。その巨匠の作品のための撮影なのである。
本職の絵画用モデルでない場合、何十分も動かないで同一のポーズをとり続ける事は不可能である。また作品のモデルがタレントであったりすれば、スケジュールの関係からもそんなに時間をとる事はできない。そこで写真が大いに役立つ。
上記のミュシアもそうだし、ドラクロア、ゴーギャン、ピカソしかり、クリムト、ロセッティしかり、まあ要するに殆どの画家が写真を利用している。また写真は一瞬を止める事ができる。ドガなども写真を用いる事により、動きのあるバレリーナやギャロップする馬の一瞬の形が描けた訳で、さらにジャコモ・バッラとかジェラール・デマシオという作家などは、写真における「ブレ・ボケ表現」を絵画に再現してもいる。
勿論、写真と絵画とでは制作の作法が異なるので、いくら感性の優れた画家であっても素晴しい写真が撮れる訳ではない(私が立派な絵画を描く事はさらに困難だ)。私の知る限り例外はバルテュスの少女達であって、またイサム・ノグチの造形写真は凄かったと土門拳が証言してもいる。
今回のテーマは、
「画家と写真家との関係」
―彼方の創造のために撮影すること―
はじめに、大きなディフューズした面でライティングを組み、無用なアクセントが付かないように、しかも自然な影が出来るようにした。これは巨匠の希望である。モデルは画伯が非常に気に入っている、若く美しい(月並みの形容詞だが)女性で、タレント活動もしている由。初めのテスト撮影で早くも巨匠のダメ出しがでた。「私は女性をこのようには見ていない。もっと下からのアングルで撮って欲しい」と。私は長身だったし、画伯は小柄だった。小柄なカメラマン、えてして女性カメラマンが立った人物を撮影するとき、よく鼻の穴がやけに強調されたり、屋外のロケ撮だと背景に電線ばかり写ってしまう事がままある。それは良い写真ではないし、殊に女性は上から見た方が可愛いと私は思っているので、彼等には撮影時に脚立を使うようアドバイスしている。
しかし巨匠にとっては、美しい臈たけた女性は、むしろ仰ぎ見る存在だった訳だ。
なるほどそれは理解できる。以後私は、モデルが立っても座っても画伯の視点から見る事を心がけて、少々辛い中腰の姿勢で撮影するようにした。
今回の撮影では、衣装については希望があるが、ポーズについては特に巨匠の指示は無かった。ウォームアップを兼ねて、モデルに自由に動いて貰って撮影して行くと、やがて巨匠にインスピレーションがやってくる。
「ううっ、もうっとこう、ぐっと煽って」
巨匠はインスピレーションがやってくると、興奮して何を言っているのか分からなくなる。
「もっと男を、こう(力強い手振り有り)、ううっと!」
言語不明瞭だが、何となく雰囲気は伝わるので、ヘアメイクに言って、多少ワイルドに髪を直してもらったりする。
「もっと脚を見せて」、「今度はこれに着替えて」
と色々なシチュエーションで撮影していく。鏡を使ったり、帽子を取替えて・・・と。
いつしか私は通常の自分の撮影のように無意識にモデルを動かし、形を作っていたのだと思う。腕が細く見えるように、体が綺麗にバランスを保ち、自然に流れるポーズで、しかも美しい顔の輪郭と効果的な影が表れるよう、そして表情・・・。
背景の整理まで含めると、フォトグラファーがコントロールすべき要素は殆ど無限にあり、これはこれで大変な集中力が必要となる。しかし、撮影も佳境に入ると一種のランナーズハイの状態(これはおそらくだが、というのも私が走るのは20メートル以内という事になっているので)に入り、非常に心地よいリズムで撮り進める事ができる。
しかし、そこに大きな落とし穴が・・・存在した。
この時、撮影した画像をモニターで確認した巨匠は一言、
「綺麗な写真だね!」
と珍しく言語明瞭に言ったのだが、その語調には明らかに巨匠が不満足であり、それは巨匠の求める画像ではないよ、という並々ならぬ強い意志が現れていた。ただ駄目と言うのではなく、真っ向から否定すべき何物かがそこにあるようだった。
絵画と写真との関係で広く膾炙している事柄の一つに、「絵画は足し算、写真は引き算」というのがある。真っ白なキャンバスに一から描いていく行為は、なるほど足し算であるし、写真の場合は、現実の中から不必要なもの、在るべきではないものを除き、省き、隠していく。これが引き算に当たる。見たいものだけを見るという、マスキング心理が人間にはある。そこで普段あまり気が付かないのだが、現実の環境というものは案外、猥雑なものなのだ。
とある美しいモデルが、とある場所に佇んでいるとして、絵画ならば彼女の背景に、美しい森や湖を容易に加える事が出来るだろう。彼女は木々を渡る風を頬に感じ、心地良さそうに見えるだろう。しかし実際には、首や頭を横切る邪魔な電線がある、匂いそうな汚れたゴミ箱があって路上にゴミが散乱している、興ざめな看板(美しい看板もあるが、時々「いぼ○」系も)がある訳で、ことに景色が狭いこの国の中では、いかに背景をぼかすか、いかに背景を切り取り隠すかという事に、人物カメラマンは常に腐心している。当然、風景作家はさらに腐心している。
現在はコンピューターで処理が出来るようになり、それはそれは楽になった。とりあえずの撮影が、かなり自由にできるようになったのだ。以前にはこの「引き算」に大変な労力を費やす事が珍しくなかったのである。
今となっては10年以上も前になるだろうか、朝まだきのベネチアでの事を思い出す。まだ暗いうちからホテルを抜け出した私は、懸命にサンマルコ広場を掃除していた。やがて明け初める朝の光と競争で、ゴミ拾いである。仕事で、未明のサンマルコ広場の広告写真を撮影する必要があったのと、もう一点は自分の作品のため、誰もいない広場にマスケラを置いて撮影したかったのである。中世ヨーロッパに黒死病といわれたペストが大流行し、人口の大半が罹患して死亡した。その折、ベネチアの医者達が遺体を運搬するために鼻の長いマスケラ(仮面)を付けた。死体に近づき過ぎないためである。
話を「絵画と写真」のことに戻そう。例えば、アーティストの中に理想のイメージがあるとして(もちろんそのイメージが制作の過程で形作られ、変容する場合も含めて)、絵画と写真とでは、前述したようにアプローチの仕方が正反対であるのかも知れない。そして、写真はやはり、決定的に現実に依存し、それに拘束されてもいる。また在るものを在るがまま撮っても、それは現実を写した単なる記録にすぎない。人物のポーズについても、何らかの緊張感があり、あるいは動きや流れがないとつまらない写真になってしまう。また画面に象徴性があり、あるいはストーリーを持ち、あるいは質感描写が非常に優れている、あるいは被写体の表情が見る者の心を強く動かす、そのような要素がない写真は、作品とはなり得ないだろう。
それに比して絵画では、何気ない普通のポーズ、ただ座っているだけのポーズでも、そのマチュールやタッチ、色遣いが生きているので、芸術作品と成り得るのであろう。
冒頭の作例『読書』について言えば、これはスタジオの中で帽子の衣装でただ撮ったもので、それをややパステル画風にアレンジしたものだ。素材感が出て、少々面白い。もちろんモデルの彼女は、醜いどころかたいそう美人だし、幼少よりクラシックバレエで鍛えた身体は、彼女に美しい姿勢を採らせてもいる。しかし、それでも元画像はつまらない記録写真だった。
最後に掲げる作例『遠雷』は、同じ画像の上に、さらにレタッチを加えている(タイトルはアンドリュー・ワイエスからの好意的?パクリです)。
遠い積乱雲から雷鳴が響いてくる。とても明るい午後だったのに、やがて涼風が立って少し肌寒く感じる瞬間。一雨来そうだ。彼女は少し不穏な気持ちで、変更せざるを得ない今日の予定の事を思い巡らす。しかし人生とはそんなもの・・・
となると、象徴性とストーリーとが生まれ、パステル風のタッチと相まって、少し面白そうな画像だ。
この実験で明らかなように、要するに想像力を働かせ作り変える余地のある写真こそ、画家にとっては望ましいものではないのか。普通、モデルは美しい訳ではなく、ポーズも完全な訳ではない。画家は描く過程で、それを完璧なプロポーションを持ち、意味深いポーズをまとうビーナスに生まれ変わらせる事ができる。あるいはこの世離れした天使や、場合によっては魔女にする事もできる。その創造の過程は、何という快感を伴う得がたい崇高な作業であることだろう(と私は思うのだが)。つまり創造主の仕事こそ、画家の本分に違いない。
「綺麗な写真」はおそらく、それ自体に綻びがなく、完結してしまっているのであろう。であるとすれば、画家の想像力を固定し、あるいは拘束し、その創造主としての出番を封じてしまうクビキに他ならない。あの時の画伯は、瞬間にそう直観したのではなかったか。
突然の事で、当日の私には、筋道がよく呑み込めない出来事だったが、今ではそう考える事ができる。
ともあれ、この事がきっかけで、「画家と写真家との関係」、ひいては「絵画と写真との関係」について考える気になった訳である。
「綺麗な写真」については、つまり写真とは作法の反対の、彼方の創造のために撮影する事については、一応結論が出たと思う。これは画家と写真家との関係と言い換えても良い。だがそこに潜在する課題「絵画と写真との関係」そのものについては、さらに突き詰めていかねばならないだろう。
現在では、素材の写真を組み合わせるコラージュ技法は当然の事として、写真素材を改造し、PCで絵画作品を作っている作家も大勢いる。少なくともデジタルで撮影し、レタッチするのは、写真館やカメラマンにとって、今や普通の作業となっている。そうなると「絵画と写真との関係」はもはや以前ほど単純では無い。ますます錯綜してきているのである。
それでは写真の本質とは何か。
私の唱える「写真行為の二元性」、すなわち「表現と記録との関係」についての考察は、また別の機会に別の項で述べる予定である。
(お付き合い有難うございます、長くなってしまいましたが、写真論に入ると、べらぼうに長くなりそうなので、止めました)。