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2011年9月 4日 (日)

人生は変貌だ! あるいは女優メタモルフォーゼ

パリのガルニエのオペラハウスから、地下鉄7号線に乗り、ポンマリ駅に出た。まばゆい夏の光線の中、サンルイ島に渡り、さらにポントゥールネルへと歩を進める。シテ島のノートルダム大聖堂はこの橋の上から見るのが格段に良い。ファッサードの裏側からになるのだが、この教会の特徴である蜘蛛の足のように張り出したフライングバットレス(壁のつっかえ棒のようなものです)がその全貌を余すところ無く出現させるのである。バシリカ本体の形状もあいまって、それはあたかも巨大ホバークラフトが静々と水面を巡航してくるようにも見える。今は亡き森有正もこの光景をこよなく愛したのではなかったか。
彼はここからセーヌ河を遡る伝馬船を見たのだった。それは船足が遅く殆ど止まっているかに見えたのだが、しばらくして気づくと、いつしか舟は上流に小さく望見されるようになっている。確かに伝馬船は進んでいたのだ。同様に小さな菩提樹の苗木がいつしか立派な若木になるのを彼は見た。一見停滞にみえるとしても、人間は間断なく確実に変わっている。その経過が「私の経験」に、単なる体験に終わらせない意味を与えていく時、この出来事を彼は驚きをもって、「変貌」と名づけたのだった(私の解釈ですが)。

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現在のセーヌ河では伝馬船というよりも観光船が頻繁に往来し、それらは結構船足が速く、見る見る遠ざかってしまう。観光客満載で中にはこちらに手を振ってくるのもいる。日差しは一向に衰えず午後になっても息苦しいような暑さが続いていた。橋の欄干にもたれた私は大きくため息をつき、手にしたペリエ水のボトルを傾けたのだが、すでにそれは生ぬるく「変貌」していた。

哲学者というのは職業柄、難解に考えるのが好きなんですな。森有正氏と言えば、昔テレビで見た時には、坂上二郎さんを野暮ったくしたような感じなのですが、その人が他のパネラーを差し置いて一番格好いい事を言うわけです。先生、パリでは随分楽しかったのでしょう。理屈抜きのワクワク感を覚え、それを「感覚の目覚め」なんて大真面目に定義しています。そういうのもなんだか楽しそうですね、仲間に入れて欲しかったなあ(何のだよ?)。

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今回はより美しく進化しつつある女優・モデルの方とのセッションです。その名は鳳恵弥さん。彼女はかつてのミスインターナショナル準日本代表で、これまで女優、モデルとして活躍、現在ではさらにビューティーコンサルタントとして美に関するエッセーやアドバイス等をこなし、現ミスインターナショナル達の指導もしているのです。インターナショナル時代は田邊恵弥、女優時代は吉永翔、さらに現在は鳳恵弥となって、出世魚もかくやというグレードアップ。まさに「変貌」を遂げつつある魅力的な女性と言えます。鳳よ今こそ大空を羽ばたいて行くがよい。っていう感じかな。彼女はこれまでもテレビCMなど随分お仕事をしている人ですので、ご存知の方も多いのでは。

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さて、今回のセッション、ロケ場所は判りますか。写真にはその全貌は写っていませんが、これで何処だか判るかたはよほど友愛の精神に満ちているはず。そう、あの有名な「鳩山邸」でございます。館も現在変貌中で由紀夫氏と邦夫氏の記念展示室を作っているそうです。最近人気のワイン薀蓄系コミックで「神の雫」というのがあります。そこで、あの天才ワインテイスターの故神咲豊多香氏の遺した屋敷、というのが出てくるのですが、それが何と鳩山邸だったのでした。知りませんでしたね、撮影に行くまでは。

「ふん、あの豊多香めがいつ鳩山邸を乗っ取りおったのか、そんな事は儂(ワシ)の知った事ではないわ」(土肥ロベール談)

という事で、とある初夏の終日、丘の上の邸宅の中で、変貌してゆく女優の相を追いながらいくつものバージョンを撮影していきました。一部をご紹介します。

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   (Hiar & Make-up:Yukko  Photo:Tonno )

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2010年8月18日 (水)

ギャラリー② <夕凪まで>

Photo ヴォーカリストの少女、マガジンのモデル、高級娼婦、秘密諜報部員・・・トウキョウのウォーターフロント、上海の租界、ニューヨーク、戦時下のベルリン・・あったかも知れない別の時間と別のストーリーを想いながら・・・

画像をクリックすると拡大表示されます。

Photos: Tonno
Hair & Make-up: Yukko
Model: Minako

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2009年9月12日 (土)

ツインイメージは山羊と6ペンス! 何か手ごわいぞ!

以前スタッフブログで、あえかで捉えどころが無いのだが、したたかな本能を持つように感じるツインの少女達を「何故かマリー・ローランサンが・・」と表現した事があった。このツインのイメージ、即ち二重人物像には、実は隠れたメッセージがあるかも知れず、ここでもう一度「ツインの小鹿」を別の角度から取り上げてみようと思う。

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マリーローランサンに「接吻」という美しい作品があって、非常に良く似た二人の少女達が描かれている。顔を寄せ合う双子の姉妹のようだ。もっとも、ローランサンの描く少女達、女性達は往々にしてどれもよく似ているので、区別の付かない事が多い。少女達はたいてい羊のようで、ローランサン自身は、山羊に似た顔で自分の絵に登場する。残っている彼女の写真を見ると、実際、山羊系である。この「接吻」の絵柄が私の頭にあって、その連想から、この画像に対して「何故かマリーローランサンが・・・」という表現が出てきたようである。

それはともあれ、二重人物像に関しては、田中英道氏が、レオナルド・ダビンチについて、世界的に評価される優れた研究を行っている。氏は二重人物像をダブルイメージと呼んでいるが、美術の世界では普通ダブルイメージと言うと、「だまし絵」のように、同一素材が、視点を変える事によって、異なるイメージに変化するような場合を言う事が多いので、ここでは二重人物像を「ツインイメージ」と呼ぶ事にする。

田中氏によれば、ツインイメージの人物がレオナルドの作品に多く登場するのだが、それは端的に同性愛を象徴しているというのである。当然レオナルドはそれ系だったが、そういった観点で彼の作品を見直してみると、確かにツインイメージとしか言いようの無い人物像が、数多く見出せる(田中氏は「ブノワの聖母」におけるイエスとマリアすらもツインイメージだと看做しているのだが、これはどうだろうか)。

エロスは、かつて一心同体であった片割れを、追い求めずにはいられないという気持ちである。これはプラトーンの「饗宴」に由来する観念で、本来、完全であったものが、神によって二つに分けられ、互いに失われたベターハーフを探し求める事になったと言うのだ(ここでは同性同士の組み合わせがより完全だと思われた)。本来一つであった良く似た者同士が、再び完全になる事を憧れ、そのための果てしない探索行というロマンチックなエロスの試練を課される事になった。

ルネッサンスのこの当時、メディチ家のサロンでは盛んにプラトニズムが論じられていたようだ(辻邦生の美しく懐かしい小説、「春の戴冠」の世界!ですな)。だからプラトーンにおけるエロスの観念は周知のものだったと思う。

ただルネサンスのプラトニズムからは遠く離れた現代で、ツインイメージの象徴が、どれほど現代人の意識・無意識の中で生きているのかは分からない。しかしそれでも、同性のよく似た者同士の美的に呼応する姿は、どこか相寄る魂を予感させる。逆に言えば、当人達の外見はともあれ、その愛の形をツインイメージで表現するという事は充分考えられる。

ローランサンは人生を折り返した時点から、サッフォー的傾向を明らかにした。晩年には、長い間、愛人であり家政婦でもあったシュザンヌ・モローを自分の養子とし、自分の遺産を相続させたのである。そして、前出の美しいマリーの絵「接吻」は、ずっと英国のノーベル賞作家であるサマセット・モームの愛蔵品だった。周知のようにモームも同性愛者である(「人間の絆」におけるフィリップの痛ましい愛の遍歴!)

もしも、二人の少女達の間に、ある安定した愛の絆が潜在するのであれば、この画像を見た時の「何か手ごわそう」という男性の直観は、実はそんな所から由来するのかも知れない。

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2009年8月 6日 (木)

自分の顔を持つ女・・・

Photo_2古い写真の中で大切そうに顔を抱えている女性。プリミティブで個性的な風貌だが、どこか遠い絵のようで、時間に埋もれつつある肖像。

実は、この女性が抱えるのは自分の顔なのである。この顔は合成ではなく、前回、彼女が自分のタレント活動用の宣材写真として撮ったもので、その顔の部分を等倍に引き伸ばし、仮面に仕立て、そのマスクを大事そうに抱えて貰ったのである。

自分のなりたい顔、そうあらねばならない顔、実際にあるところの顔・・・。
本当の自分の顔とは、自分らしい顔とは何だろうか。日々、肖像写真を撮影していると、どうしても考えざるを得ないテーマである。

土門拳はその人らしい本来の顔を撮ろうと考え、わざと怒らせたり、わざと被写体の構えのタイミングを外して撮影したりした。例えば、画家の梅原龍三郎が、あまりに執拗な撮影に癇癪をおこし、籐椅子を投げつけたところ、「それです、もう一枚お願いします」と叫んだとか。
まあ話は面白いのだが、そういった「演出」をして撮影された「顔」が、その人の本来なのかと言うと、そこには疑問がある。それは楽屋裏には違いないが、それがその人の本質かと言うと考えてしまう。土門氏の肖像写真にしても全てがそうではなく、むしろ被写体が力を抜いた瞬間に、素直に撮影したものが多いと思う。

しかし土門先生は女優に嫌われた。丸いものをより丸く、低いものをより低く撮影したからだと言われている。私に言わせれば、そのまま撮っただけの事だろうと思うのだが。

学生の時、うちのスタジオでカメラマンのアシスタント修行をし、文芸春秋に就職した女性カメラマンがいる。先日、文筆家の林真理子先生に怒鳴られたそうである。
「あんたなんか嫌い、二度と来ないで」と。
随分嫌われたものだが、私のかつての弟子に失敗はあるまい。が、ただあるものをあるように撮ってしまった事が、落ち度と言えば言えるのかもしれない。

寄り道になるが、私は男性に対するよりも女性に対する方が、数倍神経を使ってファインダーを見ている。男性なら個性になる部分が、往々にして弱点になる場合があり、これはかなりキャリアのある女優さんやタレントさんでもそうなのである。申し訳ないが、「美の共犯者」としては「粗探し」が必要条件なのだ。そこを補正し、カバーし、あるいはエクセレントな個性(微妙な崩れがあるが故に美しいというような)に転換する作業には、全神経を集中する。これはヘアメイクも含めた内輪の共同作業であり、そこでの信頼関係が必須となる。
そこで私の場合、スタジオを離れて、はじめて、普通のと言うか、素直な目が万物に向けられる。 
だから、ふいに街角で、以前撮影したモデルさん達に偶然出会い(私からは決して気づかない)、肩をたたかれたりして挨拶されると、「おおっ、こんな凄い見知らぬ美人が・・」という具合で、「一般人」の私は思わずドギマギしてしまう。ファインダーを覗いて初めて誰だか思い出すというのも一種の職業病なのかもしれない。

話がずれてきたようだが、要するに社会的な活動をする人間は、そうである自分の顔だけでなく、そうであるべき「自分の顔」というものがあって、撮影する側もその所を斟酌して、被写体と共に工夫し、そこに近づく努力をするべきなのだと思う(勿論、報道やルポルタージュではこの限りではないが)ここであるべき「自分の顔」というのは社会に対する役割・態度と言って良く、ユング心理学ではそれをペルソナといっている。

ペルソナとは元々古代ギリシャの演劇で使用した仮面の事である。

母校の大学に演劇博物館というのがあって、そこにペルソナのレプリカが展示されているのを見た事がある。それは頭から役者が被るバケツのようなもの、その演ずる役割が遠くからでも明確に分かるようにするためのものであった。王様は王様のペルソナ、乞食は乞食のペルソナがある。古代の円形劇場では、遠くからでは声は通るが人物が判別しにくかったからである(その後、この役割仮面の意味がパーソンやパーソナリティーへと派生していく)。


例えばタレントとしての顔、政治家としての顔、学校の先生としての顔、会社員としての顔、同じポジションにおいても上司に対して、あるいは部下に対して、各々違う顔があるだろう。私たちは努力し、苦労しながら自分の役割たる顔を獲得していくのであって、自分が生きるべき社会に向けられたそのペルソナ・仮面こそが、人間の生き方を表す本当の面(オモテ)であり、本面と思われるものが、実は未開で未分化な素材に過ぎないのであろう。前者が人間の顔だとすれば、後者は獣の貌ではないのか。
坂部恵氏が「仮面と人格」で提起しているテーゼも、このような事だと思うのだが、もとより人間の本能は獣であっても、本質は獣ではない。間柄関係の中で生きる人間は、社会の中でペルソナ(仮面)によって自分を定位する動物なのだ。



彼女が抱える仕事用の顔は、社会的なインターフェースであり、それは大切なものなのである。その顔は、しかし、やがて年月に侵食されていく本体の肖像とは異なり、何か別の生き物のように、青白く影を曳いて、生きているようだ。

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2009年7月26日 (日)

雪原に降り立ったパンドラは・・・

パンドラは地中海に着水した可能性が高いのだが・・・この方がよりミステリアスではないか。

モデルのカオリさんは実は「ロカデリック・パンドラ」というバンドのヴォーカルでもあって、これは先日、CDジャケット用で撮影した時のもの。実際のCDの画像とは異なります。勿論、「パンドラ」は彼女のキャラクターだ。

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パンドラは、人類初めての女性と言う事になっている。人類に火を与えたプロメテウスに怒ったゼウスが、人類懲罰ターミネーターとして、地上に送り込んだのである(意地悪な神だ)。パンドラとは全てを贈られた者の意。溢れる美と、チマチマしたちょっと役に立つ技術の色々(音楽の才能とか治療の技術とか)を与えられていた。プロメテウスはゼウスによって掛け値無しの無期刑に処せられ、おつとめ中で留守。双子の弟のエピメテウスには、ゼウスの賜物に対しては充分注意するよう言い置いていた。しかし、「仕出かした後で考える」という意味の名を冠せられたエピメテウスに後先は無い。美しいパンドラを見初めて早速、嫁に迎い入れてしまったのだった。何かウイルスに感染するパソコンみたいだ。

勿論、無邪気なパンドラに悪気はない。ただちょっと好奇心が強かったというか、まあ普通だと思うのだが・・・。

絶対に開けてはならないとされる箱(壷との説も)があった。しかも彼女の手の届く場所に。(これはゼウスに持たされたとも、エピメテウスの家に元々在ったとも言われている)。禁止されると却ってつい、と言う事でパンドラは箱の蓋を開けてしまう。尤も、キリストを裏切るイスカリオテのユダと同じで、これも予めプログラムされていた事だろう。

さあ大変、人類を不幸にするありとあらゆる災いが世の中に飛び出し、あわてて蓋を閉めたが時すでに遅く、最後に一つだけ、未来を見通してしまう能力が残ったそうだ。そこで先が見えれば絶望するしかない人間も、何とか夢と希望だけは捨てないでいられる、というお話(諸説ありますが私の解釈です)。

私には、パンドラは純真で、ちょっと好奇心があって、可愛い女性だという気がする。

カオリさんからは、ギリシャ神話の古代「パンドラ」イメージで、しかも可愛い女の子で、しかも動きのある感じで、しかも美しく、と言うハードルの高いリクエストが・・・。

しかしどうもイメージが湧かない。ギリシャ時代のヘアスタイルは、コテを使い、あるいは編んでアップにするもので、カオリさんの希望する動きのあるイメージにはなりにくいのだ。ディーバのヘアメイクスタッフもチームで検討し、あれこれ苦労したと思うのだが、結局ギリシャ時代のテイストを残しつつ流れる髪の形を考えてくれた。

絵画作品の数々を見ると、アトリビュートとして必ず壷か箱が描き込まれているが(時にはキリスト教のイヴになぞらえて蛇がいたりもする)、陳腐なので壷など要らない。実際には黒の布バックで、切り抜いて使えるように撮影した。彼女は脚が綺麗なので脚を出す衣装。さらに風を入れて動きを・・・ちょっと疾走するイメージだな。

この作品では、レタッチで背景を北極圏のオーロラと雪原にしてみた。人影のない夜の極北に密かに降臨した瞬間である。背景はカナダのイエローナイフで撮影したもので、実際この場所は氷点下40℃以下になったが、パンドラはターミネーターなので凍死したりしない。陶器質の肌を持つ輝く彫像のように、シュールな質感を出すために、またその無垢な心を表現するために、パンドラはモノクロにした。
この画像だとSF書籍の表紙にも良さそうだ。

蛇足だが、パンドラの浅はかさと研究熱心さとは科学者のものであろう。科学技術は人間の生活を豊かにもするし、大量殺戮兵器を作ってしまったりもする。遺伝情報工学、いわゆる生命科学と言われる分野でも、人間の倫理を踏み外し、その尊厳を蹂躙する惧れがないとは言えない。数々の理屈は有るとしても、その根底には科学者の「好奇心」が横たわっている。その意味で先端技術は常に「パンドラの箱」と成り得るのである。

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