紀行・ランドスケープ

2010年2月 1日 (月)

内なる殿堂  -胎内空間・カサバトリョ-

(1)プロローグ

東京シティー、夜のウォーターフロント。高層ビル群を背景にして高速道路のジャンクションが遠く眼下に見える。時折、飛び立つ旅客機の点滅するライトが夜空を横切っていく。一面が窓になったホテルの部屋の中で、私はこの現代文明の粋ともいうべき光景を眺めていた。高速道路の車のライトが列を成して流れていくので、画面にある一定の動きが与えられいつまでも見飽きる事がない。昔、人類がはじめて土器の上に幾何学文様を刻して以来、私達の合理的精神の旅が始まり、ようやくここまで来たのだ。それらの光は銀の粒をまぶしたように美しい。微かに低い街鳴りが間断なく聞こえている。人工的で魅力的なランドスケープだ。

だが、しばらくすると、どこか心の中で微かな声がするように思った。それは通奏低音のように止む事なく、次第に気になってきて、私を落ち着かなくさせた。今まではこんなことは無かったと思うのだが、耳を澄ませてみると、その声は「私はここに居る」と囁いているようだった。

一体、何に対して、何者に対峙して、そのように宣言しなければならないのか、皆目見当が付かなかったのだが、明らかにその声には深い孤独の影があった。A2_4


ふと、先日バルセロナで私が身をおいた空間は、こことは何と異なるのだろう、という考えが私の頭をよぎった。そこでは決定的に活動を止めてしまいたい位、護られ落ち着き、深く寛ぐ感覚があった。それはある意味で「胎内空間」と言っても良いのかもしれなかった。本来、「人の居るべき場所」というのはこういうものなのか、そう思った事を覚えている。今私が考えているのは、アントニオ・ガウディの幾つかの建築空間の事なのである。

今回は先日の小旅行で垣間見た、スペイン・モデルニスモ建築の二人の天才について、またガウディとサグラダファミリアとの関係について、現地で体感した事、また最近までに考えたことを書いてみたい。(長くなるかも知れません。時間のある方、お付き合い下さい)。

(2)ティトワン ―死・そして誕生以前―

盛夏の昼下がり、私はバルセロナのティトワン広場に佇んでいたのだった。ヨーロッパでは、大きな交差点はリングロードになっている。車を運転していて交差点に出ると、ドーナッツのようなリング状の道路に突き当たる。一定の方向に回って自分の行きたい方向に出るのである。ティトワンは非常に大きなリングロードで、その中が公園になっていた。ここからは四方が見渡せる。南に伸びる道路を辿ると、複数の王冠を戴いたビラセカ作の特徴的な凱旋門が見える。これは1888年に開催されたバルセロナ万博のモニュメントで、様式的にはネオゴシックだそうだが、実にスペイン的なデザインだ。ここを通るのが日課だった「彼」は、その日も、あの凱旋門を目にしていただろうか。目を転ずれば、公園の中心には大きなブロンズの群像が、高さ3メートルはあろうと言うコンクリートの台座に乗っている。そこから少し離れた一隅には黄色く塗装されたブランコがあって、女児が立ち乗りをし、その傍らでは若い母親が子供を見守っている。他に人影は見当たらず、ブランコを漕ぐ軋みと母子のスペイン語の会話が、周りの喧騒の中で切れ切れに聞こえてくる。

B

昔は馬車も走り、路面電車がこの交差点を行き交っていたはずだが、今では軌道の上が舗装され、路面は高くなり、周囲の建物も変わってしまった。「当時」を思わせるのは同じ「ティトワン」という名を持つレストランの入った建物で、それには年経りた風格があるようだった。1926年6月7日、夕べのミサに出席するため、徒歩でサグラダファミリアを後にし、北からこのリングロードに出て、サン・ネリ教会に向かう西の大通りに入った所で、偉大なる建築家、アントニオ・ガウディは路面電車にはねられ、その「神の建築家」としての活動を止めたのだった。ここがその場所だった。

彼はその時「サグラダファミリア教会」の偉大な建築家だったが、あまりに浮浪者のような身なりだったため、瀕死だったにもかかわらず4台の車が彼を病院に運ぶ事を拒否したのだと言う。上着のボタンは全て無くなり、安全ピンで前を留めていた。幼少時からリューマチだった事もあって、晩年は通常の靴が穿けず、ボロ布を足にまいていた。だが、誰もガウディだとは気が付かなかったその「浮浪者」こそは、アッシジの聖者にも負けない程の修道僧そのものだったし、建築の才能は遙に勝っていた。彼は生涯独身であり、晩年は「神の家」の創造に全ての時間を捧げ、周囲からは「聖人」とみなされていた。

サグラダファミリアは、財政難から何度も建設中断の危機に見舞われたが、ガウディは自ら人々の布施を請い門戸の前に立った。自分は報酬を受け取らず、苦行僧さながらの清貧を通し、全てを聖堂につぎ込んできたのだ。ガウディが亡くなった時、未完の聖家族教会はそれ自体の持つ特異性と、その生みの親の特異性との故に、広く国外にも知られるカタルーニャの一大シンボルとなっていた。自分の葬式は簡素にという彼の遺志にもかかわらず、ガウディの葬儀は全市民の参列する盛大なものとなったが、それは人々の自由意志によるもので、かの国ではいまだかつてそのような出来事は無かったという。

アントニオ・ガウディというと、日本でもサグラダファミリアの建築家としてつとに有名だが、その特徴の現れた傑作は他にも多数ある。最も有名なのが「カサバトリョ」、「カサミラ」、そして「グエル公園」であろう。「グエル本邸」と「グエル別邸」、その他にも岡本太郎絶賛の「コロニアル・グエル教会」なども良く知られている。

私は特に「バトリョ邸」が好きだ。破砕タイルに覆われた外観も良いが、内装はさらに素晴らしい。それらはいずれも揺らぎ、くねり、流れ、自然の造詣が随所に現れる。恐竜の脊柱のような手すり、洞窟に開いたような窓、柔らかく滴り、あるいは渦巻く天井、水中を漂うような青い波紋の居間、そして随所に現れるカテナリー曲線。実際にその空間に身を置いてみると、それらは奇抜なのではなく、全く自然で深い親しみがあり、この上なく寛げる人間の場所なのだった(観光シーズンだったので遺憾ともしがたく人が多かったが)。

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冒頭の東京湾岸シーンが前頭葉的だとすれば、バトリョ邸空間は大脳辺縁系的というべきかも知れない。前者は、より高く、より遠くへ進めと、意識を鼓舞するのだが宇宙空間に対峙するような孤独を伴い、後者は人間意識の故郷であって、どこか懐かしく、落ち着いて安らかであり、いつでも帰っておいでと招いている。駆け出しの頃は、ゴシックを基盤にムデハル様式を取り入れた設計をしていたようだが(スペインはレコンキスタ以前のイスラムの影響が非常に強く、その文化はアランブラ宮殿に見られるようにキリスト教圏よりも、遥かに進んでいた。ムデハルはその特徴を吸収・融合した様式といわれる)、円熟期のガウディのデザインは明確に自然回帰であり、同時に実は人間の無意識に深くかかわっていたのだと私は思っている。それは彼のイメージが自然をそのまま写したものではなく、非合理で類のない象徴性と曖昧な無意識の形象とに満ち満ちているからである。前述した「胎内空間」という考えは、だからそれほど的外れではないだろうと思う。ガウディのこの無意識からのイメージは、自我が目覚める以前の、私達の集合無意識にも通じるもので、その何ほどかが、これらの空間には漂っている、少なくとも私にはそう感じられた。

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後日、バトリョ邸について調べている時、この建物の外観はドラゴンであり、サン・ジョルディ(西語表記)のドラゴン退治が、モチーフではないかという説を知った。提唱者は日本人の田中裕也氏で、地道にガウディ建築の実測を続けている建築家である。

D2 それによると屋根に乗る立体十字は剣の柄であって、その刃がドラゴンの体を貫いていると言うのだ。私には巨大ニンニクとしか見えなかったのだが、言われて見ればそういう感じもする。確かに屋根はドラゴンの鱗そのものだ。であるとすれば、館内はドラゴンの体内であって、私の「胎内空間」という体感印象もうなずける。しかし、ファッサードは、そうなると、なにやら獅子舞の獅子の顔に見えてきてしまうのだが・・・


                               
<つづく>

 

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2010年1月31日 (日)

続・内なる殿堂  - 二人の天才 -

(3)もう一人の天才、ドメネク・イ・モンタネールのこと

Sant_pau 産業革命で爆発的に拡張し、発展したバルセロナは、当時、大変な建築ラッシュで、雨後の竹の子の如く建造物が作られた。その中には素晴らしい個性的な建物が非常に多数あって、それらを手がけた才能のある建築家も枚挙に暇ない。ビラセカモンタネールカダファルク(モンタネールの弟子らしい)、そしてガウディの弟子というか助手というのか、ホアン・ルビオーとかジュジョールなど(全てを検分している訳ではありませんが)。まあ個性的なのか奇抜なのか、それとも一つの様式なのか、はたまた亜流なのか、とにかく驚くような建物が普通にあるのだ。屋上に卵が載ったロエベの本店は(トイレだけ借りました)モンタネール作、テーマパークのような「サンパウ」もモンタネールだがこれは精神病院。心が痒くなるような和傘のモチーフ満載のビラセカの傘屋のファッサード、カサバトリョの隣にあるお菓子の家のような「カサアマトリェル」はカダファルク、ピカソがその坩堝から巣立っていった伝説のレストラン「4匹の猫(クワトロガッツ)」がある重厚な建物もカダファルクの作だ。

これらの居並ぶ才能の中で、「もう一人の天才」と言われているドメネク・イ・モンタネールの事を話題にしたい。彼は、当時はガウディ以上に有名で活躍していた。色々調べてみると、ガウディは職人の子として生まれ、貧乏で非常に苦学したが、モンタネールは良い家の生まれであって、裕福で順風満帆の人生を歩んだようにみえる。モンタネールはガウディより3歳年長という事で、ほとんど同年輩なのだが、建築学校では教授としてガウディを指導した一時期もあった。また顔が広く政治力もあり、実際、国会議員にもなり、バルセロナの建築界に君臨したのだという。その肖像画を見ると、やや小柄そうだが立派であり、どこか狷介な印象もあるが、生き生きと語りかけてきそうでもある。

モンタネールの傑作は、上記の「クワトロガッツ」から程近く、歩いてもすぐのところにある。それが「カタルーニャ音楽堂」である。偉大な音楽家パブロ・カザルスのホ-ムグラウンドだったと聞いたが、これは今回、私が最も感動した建築となった。

「音楽堂」は花のモチーフに満ちており、何と言う明るい空間だったろうか。私はその中に足を踏み入れた途端に笑いが止まらなくなった。あまりに素晴らしかったのである。
階段を上がるとその両側の手すり部分がそもそも素晴らしい。支柱が黄色い透明な筒状のガラスであって中に螺旋状の細い金属が入っている。電気器具で使用するヒューズ管のような作りなのだが、このガラスの支柱が列をなして、階上へと誘うのである。おりしも朝の光に輝き非常に美しいのだが、安っぽくならないギリギリの、心をくすぐるような軽さがあって、こんなものは見た事がない。斬新で、綺麗で楽しい。(後日、バルセロナからやや郊外の町、レウスのペレマタ精神病院でモンタネールが同じ造形を試みている事を知った。映像で見る限り気持ちの良い美しい病院で、コンサート用の小ホールもあるのだから、私が患者だったら退院したくなくなるだろう。因みにレウスはガウディ出生の地と言われる)
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ホールに入ると、天井に大輪のヒマワリをモチーフとしたような「大シャンデリア」が、それはよく見るとステンドグラスなのだが、太陽のように明るく輝いている。ホール内部は装飾過多どころではなく、余すところなく全てが装飾なのだが、信じ難い事に実に美しく調和しており、気持ち良く、目がくらむような華やかさだ。普通だったら悪趣味に堕する所なのだが、何と言う品の良さだろう。モーツァルトの音楽のように、滞りわだかまる事が少しも無く、心が浮き立って仕方が無い。とにかくこんな建物は見た事がない。「やはり人生とは素晴らしいものではないか」、思わず直感してしまう。この空間を一言でいうならば「花のワルツ」。間違いなくモンタネールは天才だった。ここから見たら、ガウディの空間は穴倉のようで、暗く奇妙で閉ざされている。

B 現在ではガウディの評価が世界的に非常に高く、モンタネールはガウディになれなかった男とか、妬んでガウディの仕事の受注に干渉したとか言われる事があるようだ。だが、モンタネールの才能は素晴らしく、本物の天才であったと思うので、アーティストの端くれとしての私には、彼自身がガウディを恐れたり嫉妬する必要は全くなかったと感じられる。むしろ少なくとも一時期のモンタネールが、周りの反発にも拘わらず、ガウディの才能を擁護していたという記述が残っており、それは事実だと思う。晩年は引退して海に近い母の郷里であるカネットデマールに帰り、紋章学などの研究に余生を送った。奇しくもガウディと同じだけ生き、73歳で3年早く他界した。

建築家の意見としては、モンタネールの構造的な建築技術は非常に優れており、鉄材とレンガとセラミックを組み合わせた「カタルーニャ音楽堂」は音響が素晴らしいばかりか、百年余の星霜を奇跡のように乗り越えて来たのだという。修復の折に装飾の一部を外したところ、プロの演奏家達から音が変わり響きが悪くなったと苦情が寄せられた。その美しい装飾も全て音響を考慮して設計されていたのだ。一方、ガウディのカサミラは造形の犠牲となった部分もあり、施工の失敗もあるだろうが、建築時の補修部分が綻び剥離が進んでいるそうである。

ただ、この二人は決定的に違っている。モンタネールが非常に外向的であるのに対して、ガウディは優れて内向的だ。モンタネールは社交的で名声や社会的地位を求め、政治家にもなれたが、ガウディは人付き合いが苦手で、結婚しそこない、時に依怙地であって、訳のわからない頑固者と思われることもしばしばだった。人生の後半は、他人からどのように見られるかにすら無関心となった。晩年は浮浪者の身なりでいるのも平気だったが、それは価値観の基盤が心の内にしか無かったからである。モンタネールは富裕階層に生まれ、能力もあり活躍の場が早くから用意されたし、自分でもそれを勝ち取って行く術を知っていた。一方、貧しい職人の子であるガウディは、偶然エウセビオ・グエルという理解あるパトロンとめぐりあえて幸せだった。というかそれなくしては世渡りの下手な彼は、建築家として在り得なかったのである。他の芸術とは異なり、建築のためには莫大な費用が必要である。この財界の大物であったグエルの注文や口利で、多くの作品が生まれたのだ。成功した事業家でありながらガウディの才能を見抜き、40年にわたって徹底的に彼を擁護したグエルという人も、只者ではない。幸せな邂逅だった。

またモンタネールは、モデルニスモという建築史上の潮流の寵児であったが、円熟期以降のガウディは、もはやそこには位置づけられない。外れ過ぎているのだ。良く言えば、時代の制約を受けつつも超然とした独自性と普遍性とを持っていたように思う。だからこそガウディは時代を超えて、多くの人々に訴えてくるのに違いない。

しかし、なぜ彼は時代の様式から孤立し突出していたのか。確かにガウディは、既存の様式からではなく、自然から学んだと言われている。レオナルド・ダ・ヴィンチがそうであったように。樹木の形やモンセラの岩山。それはそうだろうと思う。自然回帰なのだ。しかし、それだけでは彼の作品のもつ圧倒的な特異性を説明できない。

ガウディの建築作品の独自性と普遍性とは、実は彼の個人的無意識(独自性)と集合的無意識(普遍性)とが、誰よりも強烈に作品に反映しているためと、私には思われるのだ。

様式は各個人が内部に持っており、
         無意識のうちに自然に湧いてくる
                    
―ガウディ―

ここに突出した二人の典型的な建築家を見るのである。外向型の天才と内向型の天才である。
モンタネールにとっては倣うべき様式は外にあって(通常様式とはそういうものだろう)驚くべき博学さで、それらを吸収(収集と分類)し、出る幕を心得てそれらを使用する事ができたのだろう。社会的な活動能力も無関係ではないだろうが、彼の作品はその時代の様式を雄弁に代表していると思う。モンタネールはその博学さによって獲得した様式を彫琢し、実に上品に、この上ない形の美しさと調和とをもって、現実の空間に表現する事ができた。この才能は並外れて余人に求め得ず、彼の独壇場であって、その美と調和の奇跡が、彼の作品に時代の様式を超えた、紛れも無い普遍性を刻印したのだ。

一方、アントニオ・ガウディという個人の心的エネルギーは内に向かう性質のものであり、彼の作り出す空間はその内なる無意識からのメッセージに導かれ、無意識から届けられる素材を用い、無意識の有する混沌の影を色濃く反映していると思われる。骨格は時代のネオゴシックだったとしても、これでは既成の建築様式に収まるはずもないのである。

前章までは、合理的意識と非合理の無意識との、各々の空間的表現の典型と、その人間に及ぼす心理的な作用につき、思うところを少々述べた。この章では、外向的な感覚機能の作り出す傑作がどういうものであるのかを、体験に基づいて顧みつつ、ガウディの作品がそれとはおよそ異質であることを確認したように思う。

モンタネールの最高傑作「カタルーニャ音楽堂」の素晴らしさは、いずれどこかで再考するとして、ここで再びガウディと「サグラダファミリア」のことに戻り、さらに核心に迫りたいと思う。

                                <つづく>

 

<番外・バルセロナ・レストラン事情>

スペインというと、ウサギとウナギとパエリャ(パエジャと言います)ですが、今回は残念ながらパエジャについては「これは!」というのにめぐり合えず、それが大変心残りです。一方、どこでも美味しいのが生ハム。それもハモンイベリコというイベリコ豚の生ハムで、それの熟成したやつ。脂が透明になり、トロトロで、大変風味がある。これは現地でないとなかなか食べられないようです。これを土地のヘレスやワインと一緒にやると、しみじみと幸福感が心を満たします。

さて、バルセロナでは雰囲気があって美味しそうな店が沢山ありましたが、財政難のため一部しかトライできませんでした。

文中にあるカダファルクの建築になるレストラン「4匹の猫(クワトロガッツ)」は現在もピカソの時代と同じ場所にあって、ホウレン草を練りこんだラビオリやクリームソースのカネロニが感動的に美味です。大変活気があって店のスタッフが火事場のように動き回っている。なかなか雰囲気がいいですよ。

ピカソは当時19歳、ここで仲間と議論し、描きまくってパリに出て行くのです。彼はガウディの設計したグエル邸の前にアトリエを構えていたくせに、ガウディ芸術には反発しました。たぶん青年ピカソの自負だったのでしょうね。
4gats
またそのガウディの建てた「カルベ邸」と言うのがあって、建物の1階がカルベの名を冠したレストランになっており、ちょっと高級だが大変美味しい。美しいガラス装飾のある暗いモデルニスモなガウディの空間です。テーブルの上だけの極端な斜光に、料理が幻想的に浮かび上がります。これは「陰影礼賛」か。料理はウサギも良かったし、注文した品はどれでも、食べれば笑顔になりましたから、多分何でも美味しいと思います。デザートのチョコレートがまた素晴らしく香り高い。このカカオの恵みはかつての植民地に拠るものでありましょう。良い豆が入って来るに違いない。皿やカップはガウディの破砕タイルのデザインだし、メニューの中にカタルーニャ風とかの記述もあって楽しく、お薦めです。それに、ここのマダムは美しく、実に気品に満ちています。ただし時間になるまではどんな事があっても店を開けない主義なので、開店前に行かないように。
Calbet
因みに、伝統的なバルセロナ郷土料理をと考え、茹でたカタツムリを食べに、「ロスカラコレス」に行った時のこと。そこの料理がとにかく塩辛いのです。店は大変風格があるのですが・・・偶然隣のテーブルにいた日本人の大学教授夫妻が、「ガイドブックを見て来てしまったが、塩辛いのであまり注文しない方が良いですよ」と忠告してくれました。しかし考えてみるとバルセロナは上記のように産業革命以後の労働者の街であって、まあ塩辛いのが正統なのです。カラコレスよ!お前は悪くない。たぶん・・・。
それで店の中を撮影させて貰いましたが、厨房の職人と思慮深いギャルソンがいい味出してますな。
Caracoles

全土でみると、スペインは世界の料理人の発祥の地、食の桃源郷と言ってもよいバスク地方を抱えています。が、今回は検分できませんでした。またバルセロナにはミシュランの三ツ星で「世界No1レストラン」の呼び声高い「エルブジ」がありますが、有名になりすぎたので日本から予約していかないと駄目でしょう。今回巡回した限り、もし貴方が「エンゲル係数100も辞さない派」であれば、その「食の探求スペイン編」は、マドリッドバルセロナ、やはり都市ですね。伝統を踏まえた上で、新しい味の創造が静かに進行しているようです。そして注目は赤丸急上昇のバレンシアだと思います。

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2010年1月22日 (金)

続々・内なる殿堂  -サグラダファミリア-

(4)内なる殿堂 ――サグラダファミリアの秘密――

Sa もちろんサグラダファミリアはカトリックの教会である限り信仰の問題が基盤にあるのだし、それについて私は多くを語る事ができないが、ガウディの超越性というものは直観できる。サグラダファミリアに出会った時の圧倒的な何か、地上のどこにも属さない、あたかも異星の砦のように見える存在由来。それは何か。前章でガウディの作品には彼の無意識が強く反映していると書いた。このサグラダファミリアについては、さらにもう一歩踏み込んでみたい。

誤解を避けずに言えば、サグラダファミリアという建築は、彼の心の内奥に形成された「内なる殿堂」ではないか。そして、そこに表現されているのは彼の自己像そのものではないか。つまりサグラダファミリアはその自己像が外化(意識下にあるイメージの外界への具体化)して結晶化しつつあった建造物ではないかと思うのである。であれば、次のように言い切る事もできるだろう。サグラダファミリアはガウディ自身であると。

ある意味で残念な事だが、私の心性はガウディに似ており(もちろんその天才は別)、内にイメージを見るタイプなので、彼の事はとても良く理解できるのである。もし私が若い建築家の卵で、モンタネールかガウディか、どちらかの弟子になるという事だったら、躊躇なくガウディを選ぶだろう。偉大かも知れないが、偏屈な変人・狂人と揶揄されたガウディだが、身内の人間に対しては全く違ったと思う。といっても結婚しなかった彼は晩年には、天涯の孤客となってしまったが、仲間の職人達に対しては、おそらく彼は非常に親身で二心なく、深い絆で結ばれており、彼等もガウディに対して絶対的な信頼と尊敬とを寄せていたのではないかと思う。そして私も彼の「内なる殿堂」を形とするための手伝いをしたいと心から願ったはずだ。

私は学生の時、次のような夢をみた。

夜だった。とある茫漠たる広場のような空間を囲む、長い大きな回廊に私はいる。その回廊には吊り燈籠というのか、多くの雪洞のような灯りが連なって滲むような淡い光を投げかけ、私の行く道が夜の闇に浮かび上がっている。心安らぐ懐かしい気持ち、どこか故郷に帰って来たような意識があった。私はその回廊を歩いて行き、やがて楼閣のある大きな門にでた。そして当然のように、しかし厳粛な気持ちで、秘密の奥の中庭に入っていった。立ち止まりよく目を凝らしてみると、その奥庭の中央に非常に大きな何かがあって視界をふさいでいるのが判った。それはどうやら巨大な塔で、異常な量感をもって漆黒の闇を背景にそびえており、それを見上げた私は強い畏怖の念に打たれた。それはどこか日本の城の天守閣に似ており、何とも言えない威容だった。だが次の瞬間に私は愕然とした。その巨大な塔は何と中ほどより上の部分が、空中に浮いているのだった。明らかに未完成で、建設途中であり、空中楼閣そのものだった。恐怖に近い何かが私の胸に押し寄せ、すっかり驚いて目が覚めた。

以後もこの種の夢は何度か現れ、そのつど、建物は成長し、あるいは変容して行った。その後C..ユングの心理学に触れた時、おそらくこの夢は建物の配置などが、無意識の中に配された心像のトポスであって、塔の変容は自己像とその生成を象徴するものであろうと考えるにいたった。今にして思えば、もし自己の象徴が空中楼閣だとすれば、非常に危機的な状況だったと思うのだが。

後日、この中庭と言うか、広場を囲む夢の回廊と、そっくりの建造物を現実に見た。それは何と京都の平安神宮で、門をくぐって広場に入ると、とても懐かしい崇高なデジャヴを感じた。まあこういう所が、私の意識・無意識が地域の文化に影響を受け、限定されている所以だが、夢の中の回廊はもっと立派で、規模が大きく神秘的であったとは思うのだ。さらに社殿の奥にあった秘密の庭と黒い巨塔に関しては、未だにそれに似た建造物と出会っていない。


Sb 私がサグラダファミリアを目の当たりにした時、初めてこの夢を見たのと同じような種類の情動を覚えたのだった。以前から写真で見知ってはいたのだが、実際に見ると臨場感があって五感で感じるものがある。勿論、構造上の強度計算は合理的になされているのだろうが、何か非合理な、計算された意識の産物ではない形態、すなわち無意識から来て無意識に訴える象徴的な形態や、混沌として意味の影に満ちた洞窟の気配があたりに漂っていたのだ。この建造物に没入したガウディの気持ちが手に取るように解った。「ああ見事だ、これは内なる殿堂だ・・・」

自然にそんな言葉が私の口を衝いて出ていた。そしてこれが今回のガウディ小論考のタイトルとなったのである。

アントニオ・ガウディがサグラダファミリアの造営を任されたのは、かなりの偶然からだったようだ。まず前任者のビリャールが、折からの財政難で施主側から素材の変更を迫られ、そのために臍を曲げ、匙を投げた。費用のかかる石造から安いレンガへの変更を施主に助言した副主任のマルトレールは、自分がしゃしゃり出るのに気が引けて、考えた末、かつて自分が助手として使い、ビリャールも指導したことのあるまだ無名のガウディ青年に、お鉢を回したという事らしい。ガウディは31歳だった。ビリャールの設計図を見ると、「聖家族教会」は実にありふれたネオゴシックの退屈なデザインの小さな教会だった。ビリャールが臍を曲げなければ、今日我々が目にするような驚くべきサグラダファミリアは存在しなかった訳だ。

もっともガウディにしても、初めから今日最終形として知られるサグラダファミリアの構想があった訳ではない。はじめはビリャールの計画を受け継いだが、本気になるにつれ、それを廃棄し、自分で設計をし始めた。彼はデッサンと模型とでイメージを形にしていき、実際の三次元の造形から受ける感覚を再びイメージにフィードバックしていったのであろう。しかし、そのデッサンは何度も書き換えられ、実に40年余にわたって、死の直前まで変容し続けた。つまりサグラダファミリアには設計図が無かったのだ。サグラダファミリアの原型はガウディの心の内にあり、彼の個性化と共に成長してきたのである。

その間に、彼は餓死しそうな心身の衰弱の危機を経験し、カトリックの信仰を得た。(普通に幼児洗礼を受けてはいたが、若いときのガウディは無神論者だったふしがある)。何を思ったか自ら断食してあわや即身成仏になりかかったらしい。大きな心的ストレスに見舞われた時、外向型の人はヒステリーに陥る。それは何らかの形で無意識的に外界に訴える心身症で、声が出なくなる、目が見えなくなる、動けなくなる、など症状は多様であるが、いずれも外界への発信であることに変わりはない。しかし、内向型の人はこの場合ひたすら精神が消耗するので、外から見ていて判断できなくとも心のエネルギーが燃え尽きてしまい、内面が生ける屍さながらといった場合もあるし、これが動けない状態になると心ばかりか身体も完全に憔悴してしまう。ガウディは精神的に相当衰弱していたのであろう。この時期、死の危機に瀕したと言われている。彼を救ったのは尊敬するトーラス神父の次の言葉だった。「人生は、はかなく、すぐに過ぎ去ってしまう。だから人間は自分の意思ではなく、神によって生命を絶たなければならない。特にあなたの場合はそうしなければならない理由がある。この聖堂は神の望みにより、キリスト教徒を精神的に養うために着工されたのであり、あなたはこの聖堂を完成させるという現世での使命を受けているのだから」と。(この言葉、鳥居徳敏氏の著書より)

彼は再び起き上がり、そのとき新生ガウディが誕生したのである。自己の使命を自覚してからは、次第に深い神学的教義を思索するようにもなっただろうし、以後、彼の建築物における作風が変わったように思える。サグラダファミリアに関しては、この時点から、今日残されているような一応の完成形のイメージが姿を現すまで、さらに30年以上が必要だった。そして後半の10年間は他の仕事は一切請けず、サグラダファミリアの建設にのみ、全生活を捧げ、文字通り「神の建築家」となっていくのである。

Photo_3彼の最終プランでは、サグラダファミリアは完成すると次のようになる。正面に「栄光の門」、向かって右側面、太陽の昇る側に「生誕の門」、陽の没する方角の左側面には「受難の門」が設けられる。それぞれの門の上には4本ずつ、計12本の塔が屹立し、これは12使徒を顕彰する。その内側に4本のさらに高い塔、これは4人のエヴァンゲリスト(福音史家:マタイ、ルカ、マルコ、そしてヨハネ)を象徴する。中心には一際高く太いイエスの塔、その少し後ろにはマリアの塔が立つ。マリアの塔は使徒の塔よりは高く、イエスの塔に寄り添っている。即ち、全部で18本の塔が建ち、3つの門ができる予定だ。現在までに、門が2つ、使徒の塔が8本できている。現在完成している二つの門のうちの一つ、「生誕の門」は、すべてガウディのプランによるのだが、ファッサードは腐りかけた巨神兵の肉のしたたるような鍾乳洞で、あからさまに深い無意識との関わりを連想させる。実に見事だがあまりに混沌としているので目を凝らさないと彫像達が見えてこないほど。

内陣は側廊から天井を支える柱が林立するが、「森の木々から木漏れ日が降るように」というのが、ガウディの計画である。そこにステンドグラスが美しい光を投げかけるのであろう。これは大変ユニークなプランだと思う。私の感想では巨大セロリが林立しているようにみえるのだが陰気でなく楽しい。

Sd そして、完成の暁には使徒を表す塔の先端、その頂華の指輪穴からサーチライトがイエスの塔とバルセロナの街を照らし、イエスの塔からは中空へ光が、また塔の内部には、音階をもつ鐘(カリヨン)とパイプオルガンが仕掛けられ、光と音の競演が定時毎にくりひろげられる予定なのである。常に神を顧み、聖家族に対する贖罪の気持ちを思い起こす警鐘として、バルセロナの街全体へ響き渡るように。(実に驚くべき建物です!)。

このように複数の塔がイエスや使徒に捧げられて、結果、塔そのものが擬人化されている教会というのは珍しいというか、他には皆無ではないかと思う。この試みは、一時期、同時進行していたモロッコのタンジールに立てる会堂の計画で、すでにガウディは着想していた。この計画は彼自身、傑作と自負していたらしいが、結局、施主団体の資金不足のため実現しなかった。パラボラ型の尖塔が林立し、それぞれがイエス、福音史家、十二使徒をあらわしていた。その真上からの平面図を見ると全体は正方形に円の組み合わさった上下左右対称のもので、まさに胎蔵曼荼羅さながらの図となっている。サグラダファミリアでは、これに聖母マリアの塔が加わった事になる。

しかし、一つ疑問があるのだが、これは聖家族教会であって、聖家族とはヨセフマリアイエスなのである。イエスの養い親であるヨセフはスペイン語ではホセというが、その名をホセ・マリア・ボカベーリャという人がこの教会の創設者・発案者なのである。かれは出版業を営み、ローマ教会の権威の低下と世の宗教心の希薄化を憂い、「サンホセ協会」を主宰した。そして聖ヨセフを家長とする聖家族のための教会を作ろうと決心したのだ。それが正式名称「聖家族のための贖罪教会」、即ちサグラダファミリアなのである。1882319日、聖ヨセフの日に礎石が置かれ、建設は始まった。

イエスとマリアと福音史家、十二使徒、各々に捧げるタワーがそびえるとして、ヨセフはどこにいるのだろうか。肝心のヨセフの塔が無いのである。イエスとマリアの塔の基壇となる内陣そのものがヨセフを表すとでも言うのだろうか。この全体像はサグラダファミリアとしては相応しくない。家族の像が見えないのである。ヨセフがいないのならば、いっそうの事、マリアの塔を取り去るか、これを聖母ではなくマグダラのマリアの塔とすれば筋が通るのだろうが、今のままでは理屈に合わない全体像と言わざるを得ない。

そして現在姿を現している使徒の塔、それは虫食いだらけでゴツゴツしており、まるで巨大な蟻塚のようだ。もしも日本の住宅街に出現したら、地域住民から訴訟をおこされかねないほど原始的で野蛮な感じもする(イエスの塔はどういう事になるのだろう)。実際、建築家のル・コルビュジエは、かつてこれを見て「バルセロナの恥」と言ったのである。意識的な洗練とは対極にあるこの力強さは、一体どこから来たのだろうか。そしてその頂華の個性的で何と立派な事。しかし、これは使徒の担うべき清貧と謙譲の徳を表現するようには見えず、少々くせ者の王侯貴族のように威風堂々としていて、むしろガウディの内面の矜持を示してはいないだろうか。

Sc 擬人化された建造物の要素がその役割や枠を超えて何かを顕している。ファルロス型の巨大な太い塔が、その中心に屹立する事で完成するこの教会の全体像は、むしろ極言すれば、ガウディの深い無意識から浮かび上がってきた「自己とアニマとその他の元型との競演」と考えた方が、妙に腑に落ちる布陣だと思うのである。(ここで言う自己とは私の中心というほどの意味)

世に、外化した「内なる殿堂」が幾つか知られている。郵便配達夫シュバルの理想宮、豪州サトウキビ長者のパロネラパーク、かつて香港島に花開いた秘密のタイガーバウムガーデン、ボマルツォの「聖なる森」、イタリアの数々のグロッタ。多くは無意識界がそうであるように、奇怪であったりキッチュであったりするのだが、無残であったり痛快なものもある。マイケルジャクソンのネバーランドや狂王ルードヴィッヒ二世のノイシュヴァンシュタイン城もここに挙げられるだろうか(書割建築というコンセプトであれば、各種テーマパークや映画村もここに入るだろうが、外的なテーマや使用目的があり、組織的に設計・施工され運営されるものはここにエントリーする資格はない)。必要な機能なり、前提となるテーマがなく、箱庭が発展したような空間、必要性を離れて個人的で止むに止まれぬモチベーションから成る建造物は、大抵は皆どこか偏頗であり「内なる殿堂」の匂いがする。

私たちの意識は氷山の一角であり、水面下に深く豊かな無意識がある。その世界は静的なものではなく、発展し、流動している。私たちの行動は気づかぬうちにその影響を受け、ある時には非合理で普段なら考えもしない決断をしてしまう。無意識の内容は夢に現れ、あるいは意識レベルが低下した折にふいにその片鱗を見せる。忙しさに取り紛れてしまった事々、防衛的忘却によって封印された劣等感や都合の悪い事、忘れ去られた理想の自分や今では遠くなった美しい光景、これらも潜在意識の内容となるが、こういうのは無意識の中でも比較的表層の個人的のものだ。深い層には多くの人々に共通する無意識があり、その要素としての幾つかの元型がある。良く生きるための知恵もそこにあるのだという。それらの中に「自己」という元型とそれを取り巻く小宇宙がある。

私が考えるに、個人的な無意識をより多く巻き込むほど「内なる殿堂」は何かしら奇矯グロテスクになる。内向的な人は特に、他人からの見栄えに無頓着になりがちで、劣等なコンプレックスが無防備に顕れるのだろう。もし、その外化した「殿堂」が人々にいわく言いがたい感動を与えるとすれば、技術や造形力の優劣は別として、そこに深層にある集合的無意識の何らかの要素が多かれ少なかれ立ち現われているのだと思う。

しかし、その「内なる殿堂」を外化する作業というのは、ユング心理学によれば、私たちの人生にとって、少なくともあるタイプの人達にとって、決定的に重大な意味を持つという事だ。C..ユングもボーリンゲンの地に、塔のあるユニークな館を自らの手で建てたのだった。そして、それは自分自身の個性化の過程で是非とも必要な作業だったと彼は述べている。

Se こう見てくるとサグラダファミリアは非常に特別な建築物だという事がわかる。前述したように、建設はビリャールの後を受けて二代目の建築家に委託されて始まったが、途中からは設計のみならず施工の実質的主体が、資金調達の点でもガウディ個人に移り、彼の自由な創造に掣肘を加える圧力がなくなった。従ってこの建物には実際のところ納期も設計図もなく、建築家の個性化に応じて全体像や空間イメージは時間をかけて自由に発展生成していった。ここに彼は「内なる殿堂」を外化していったが、他の「殿堂」たちと違っていたのは、サグラダファミリアは個人の慰みに供する密かな芸術作品ではなく、まして趣味の洞窟ランドでもない。それは社会的・宗教的な役割を持った「神の家」としての教会であった。またサグラダファミリアの建設は、ガウディの晩年には、カタルーニャの地で社会的な出来事となっており、民衆による神の家の復興とカタルーニャ民族主義との象徴になっていた。晩年の彼は、それら神と人々から課された使命を深く自覚した。

サグラダファミリアは、だから、内向タイプの天才的建築家が、自己像を含む「内なる殿堂」の投影を、第一級の社会的建造物として成就しつつあった実に稀な例だったのではないだろうか。そしてその出来事は、彼が一種の宗教的祈りの下に、自分自身を突き詰め個性化してゆく過程で起こったと言えるのではないだろうか。

()サグラダファミリアの危機

今回のスペイン小旅行では、私の無知故にコロニアルグエル教会への訪問をカットしてしまった。今となっては悔やまれる。その教会はグエルの死によって未完となったが、地下礼拝堂は傑作であり、図版を見る限りでは、未完の完成とも言うべき態を成している。

それではガウディの死によって成長が止まったサグラダファミリアの場合はどうであろう。サグラダファミリアはガウディ自身であり彼の作品に他ならないのだから、例えばバッハの「フーガの技法」がそうであるように、本当は中断したまま置いておくべきものだと思う(地下礼拝堂は使えるのだし)。しかし、残念ながらこれは公の役割をもつ教会であって、故人の遺志も子々孫々の代に完成を託したのであってみれば、やはりガウディのプランに従って建設を続けるのが正しいのであろう。造り続けるのがサグラダファミリアだという考えすらあるのだから。

当初、200年とも300年とも言われた工期であるが(現在までに100年余が経った)、近年の観光による莫大な収入と、最新式の建設機械の投入、80年代より石に替わって鉄筋コンクリートを使用するようになるなど、諸条件の改善()により、工期は大幅に短縮されたようだ。何とこの後20年程で完成の見込みという。そうなると完成はこの眼で見届けたいものだが、速成というのはどうだろうか。重厚な石積みでコツコツと、しかも超迅速にはできないものか。現在のコンクリート造作の部分は、木に竹を接いだ感じは否めないし、全体も何かテーマパークの張りぼての建物に近づいて来ている気がする。かなり心配である。

さらに深刻(と私は思うのだが)な問題がある。その問題は「受難の門」に既に顕れている。ガウディが路面電車にはねられた時、ポケットの中には、携帯版の聖書とナッツ(彼の昼の食事)と受難の門の細密な完成構想スケッチが入っていたという。今日、受難の門は完成しているのだが、担当彫刻家は全くガウディの意匠を変えてしまったのだ。誕生の門の彫像の一部を担当した日本人彫刻家、外尾悦郎氏は受難の門の作成時からそれを批判してきたし、今でもその事は過ちであったと述べている。私も同じ意見だ。受難の門の彫刻群は、インスタレーションとして見ればとても出来の良いものだと思う。そもそも単純な幾何学面を持つ彫像達によって、大きな悲しみが静かに表現されている。空間が整理され単純化されたために、深い感情が象徴的に昇華されて(この方向はガウディの意向に沿っているが)、いくばくかの空しさと共に形而上的な思索を誘うようでもある。しかしあまりにも彫像達はガウディの意図とは異なっており、「生誕の門」とも平仄を欠いている。これはもう一度やり直し、現在の彫刻群は別の場所にでも展示して貰いたいと願うのである。
今後もサグラダファミリアには種々のアーティストがやってきて、それぞれの個性で自分の好きなように仕事をしていくのだろうか。だとすれば、もはやこの教会はガウディのものでは無くなり、やがて複数の自己満足の落書きで満たされた巨大な寄せ書き帳と化して行くしかないのであろう。これをサグラダファミリアの危機と言わずして何としようか。

好き勝手に書いてきたが、もとより私は建築の専門家ではないし、つい先日まで、ガウディについては殆ど予備知識も無かったのである。むしろ今回スペインを訪問したのは、宮廷画家ベラスケスと彼の生涯とに興味を持っていたからで、まずマドリッドのプラド美術館を訪ねたい、というのが主な動機だった(それはまた別項で)。ガウディについては、帰国後、冒頭に書いたような事を感じる事があって、気になって多少調べ始めた訳である。といっても何冊かの本を読んだという程度。だから、今回のガウディとサグラダファミリアについての感想の根底にあるものは、すべて現地での私の直観であり、専門家からすれば的外れで噴飯物だと言われても仕方ないのかも知れない。

しかし・・・それでも「私は知っている」のである。ガウディが何を作ろうとしたのかを。

            完

(お付き合い有難うございました。長くなるため文中の幾つかのユング心理学の用語は解説無しで使用しました。悪しからず。なお「内なる殿堂」は私の造語であり心理学用語ではありません。)

Photo_4 補遺:「ティトワン」で出てきた、広場中央の集合の彫像ですが、これは実はモンタネールの発案により作成され、ガウディが土台の石造部分を造形したものです。バルトロメというカタルーニャの医学博士の銅像です。バルセロナの市長も務めました。しかし、復元されてこの広場に移築されたのは比較的最近の事で、内戦で破壊された時は別の場所にあったそうです。モンタネールとガウディの浅からぬ縁を感じます。そしてガウディが瀕死の打撃を受けた事故現場に置かれた医学博士の石像というのも・・・因縁を感じます。

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2009年8月10日 (月)

ランドスケープ・・・夏はやっぱり海ですな!

少し前に行ったオーストラリアでの休日。夏なので海の画像です。


2_2
「どうだい、いいイルカの写真が撮れたかい?」
セスナ機で私をモンキーマイアまで運んできた退役軍人の男が聞いた。
「まあまあだね」
カメラのモニターで今撮影したばかりの画像を見せると、彼は片手でイルカが泳ぐまねをして、「シュー」という音を出した。動きがあって、泳いでいるねという意味らしい。
サングラスの奥の目が笑っている。

モンキーマイアは自然に餌付けされたイルカが見られるのでちょっと有名だが、これがパースからセスナ機で5時間ほど飛ばねばならない。死ぬかと思うほど窮屈な機内。私はしばらくパイロットの隣の副操縦席で縮こまっていたが、流石に我慢できなくなり、手足を不完全に伸ばしながら精一杯のあくびをした。その時だった。突然、セスナ機が急旋回し、しかも急降下を始めたのだ。やばい!退役軍人のパイロットはすごい叫び声を上げ、それでも何とか機体を立て直した。
「やるじゃないか」私は心の中で彼に声をかけたのだが、しかしこの危険飛行はエアータ-ビュランスでも何でもなく、私の足がラダーペダルを思い切り踏みつけたのが原因だったようだ。
で、以後はあくびも禁止になってしまった。

Photo_3
シェルビーチ
は貝殻しかない、天国的に白くどこまでも続くビーチ。はるか沖まで行って見えなくなりそうなのに、水深は膝までしか無い。写真の撮りようがなくただぼんやりと眺めていたものだ。この小さな貝殻が堆積すると長い時間と圧力の末、結晶化して固まる。この当たりではそれを地中からブロックで切り出し、家を作ってきた。
白い美しい貝殻をペットボトルに詰め、お土産として持って帰った。実家ではそれを植木鉢に敷き詰めた。鉢は綺麗になったが、植木が全て枯れてしまった。よく洗ったにも拘わらず、塩分が抜けなかったようだ。

Photo_4
海の彼方に伸びようとしている。すでに枯れてしまったというのに、なおも波濤を渡って行こうと・・・そんな意志を感じる造形だった。

ここは小さな島なので散歩しながら一周しても全く苦にはならない。生態系が厳しく守られてきた小さな楽園。清浄な宝石のような土地。

Green_island 今日の午前中、私はビーチチェアーに横たわりながら、「ああ、太陽がいっぱい!」とか言ってみたのだが、ちょうどその時、目の前の海に一機の飛行艇が降りてきた。砂浜で遊ぶ二人の金髪の子供たちの背景となって、機影は次第に大きくなり、やがて着水すると、かなり水際まで来てアンカーを下ろした。まずポーターが腰まで水に浸かりながら降り立った。私は、彼が頭の上に革の四角いトランクを載せて、ゆっくり歩き始め、続いて数人のファミリーが、上陸のため飛行艇からゴムボートに乗り込むのを見ていた。勿論、私には彼等に「俺の島から出ていってくれ!」と言う権利はなかったが(第一私の島ではないし・・・が、先住権というか古参というか、わずか数日分の優越感なのだろう、この発想は)、しかし、傍若無人のヴァカンス客が押し寄せて来るならば、デリケートな島の生態系に悪影響を及ぼす事も有りうるだろう。

しかし、自家用の雰囲気を醸し出していたあの飛行艇、たとえチャーターしたものにしても、一味はかなりこの島に慣れているようだった。私の方がよほど、よそ者だったに違いない。

最近、この島では観光客に餌付けされてしまった鳥の群れが問題になっているそうである。残念な事だ。

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